自分を語ることで差別の「こっち側」と「あっち側」に橋をかける猿回し師 村﨑太郎さん

 村﨑太郎さん、49歳。職業は猿まわし師。村﨑さんが猿の次郎に語りかけると、次郎がさまざまな仕草で応える。村﨑さんの合図で、次郎が高くジャンプし、輪をくぐる。
 猿まわしは千年以上の歴史をもちながらもいったんは途絶えてしまっていた。江戸時代以降は被差別部落民の生業(なりわい)として差別視されてもきた。猿まわしが最後まで残っていたとされる山口県の被差別部落に生まれ育ち、厳しい差別と闘ってきた村﨑さんの父は、高校2年だった村﨑さんに「猿まわしにならんか」と語りかける。「部落が誇る伝統芸能を復活させろ。そして太郎、部落が誇るスターになれ」と。
 自分なりの考えもあり、村﨑さんは17歳で猿まわし師の道を選んだ。その選択は、被差別部落に生まれたことと切り離せない。小学校に入学した頃から、差別を否応なく意識させられてきた。人とのつきあい方や物事に対する考え方にも大きな影響を及ぼした。もがきながら生きてきた村﨑さんは今、何を思うのか。かつての自分をふり返りながら語ってくれた。

態度が変わっていった同級生たち

 小学1年のころには敏感にいろんなことを感じていましたね。たとえばぼくだけランドセルも靴も服も兄のお下がりで、友だちから「村﨑はビンボーやからのぉ」とからかわれてました。小学2年の時の担任には、「村﨑君は馬鹿なので、授業が終わっても九九の勉強をしましょう」と言われた。「そんなことを言う先生のほうが馬鹿じゃないの?」と思ったのをよく覚えています。でも当時は子どもだったからちゃんと言葉にできなかった。ただ、心のなかで教師に対して一線を引きました。
 それ以来、勉強がきらいになった。何のために勉強するのか、まったく理解できなくなったんです。近所のおっちゃんたちに「おまえは部落やから一般の子と同じにはならん」と、ことあるごとに言われてたのも大きいと思う。「どうせ部落の子どもじゃから」と卑屈になっていました。そんな気持ちを父は感じ取っていたと思う。ぼくが小学5年生になった時、「部落に生まれようが生まれまいが、一生懸命やらんやつの人生はつまらんものだ。"どうせ"なんて卑屈になって生きることほど、つまらんものはない」と言ったんです。今思えば、自我が目覚めてくる大事な年ごろに、真正面から言った父は偉かったですね。すんなりとは受け入れられなかったけど、それから変わり始めました。まず、いつもビリだったマラソン大会で、5年生で5位入賞、6年生で優勝しました。努力すれば結果を出せると実感して、中学に入る頃にはすっかり強気なガキ大将になってましたね。

 中学1年の時、初恋を経験しました。女の子から告白されたんです。ところがぼくが被差別部落に住んでいると知った彼女の両親が、「村﨑くんとはつきあってはいけない」と彼女に言ったんですね。それから彼女の態度がどんどんよそよそしくなって、自然消滅しました。つきあっているといっても完全にプラトニックだったんですけど、親にすれば10代の恋愛の先には結婚があると思い、敏感になったんでしょう。
 同じ頃、友だちの態度も変わっていきました。ぼくが住んでいた部落は川で一般地区と隔てられていました。同級生には川の向こうの高台に住む、大きな企業のお坊ちゃまもいました。小学生までは親も「みんなと仲よくするんだよ」と教えるんだけど、中学生になると「村﨑くんとはあんまりつきあうな」と言い始める。子どもが「なんで?」と訊くと、「あの子は部落の子だから」というわけです。だから友だちの数がぐっと減りました。

 ある時、ひとりの先生が「この本、どうだ」と手渡してきたのが『アンネの日記』でした。「なんじゃ、こんな女の話」と思いましたが、ちょっと気になる女の子を思い浮かべて「ちょっとは女の子の気持ちも知っとこか」と(笑)。しょうがなく読み進めていくと、普通の女の子の状況がどんどん変わっていって、否応なく巻き込まれていく。自分の気持ちとは関係なく、社会が徹底的に差別してくる。ぼくも、自分はまわりの友だちと同じ人間だと思ってるのに、部落や貧困であることで差別される。通じるものを感じて、途中から夢中で読みました。
 それまで1冊もちゃんと本を読んだことがなかったんですけど、突然、もっといろんなことを知りたいと思いました。勉強も、マラソンの時と同じようにがんばればできるはずだと猛勉強して、半年後にはクラスでトップの成績をとるまでになりました。

「愛される存在」としての自分に気づく

 進学校に入学後は、音楽活動に没頭しつつ、部落解放運動に参加し始めた。部落の人々が自ら立ち上がり差別と闘ってきた歴史に共鳴しながら、友だちや恋人探しが目的でもあった。淡い恋とはいえ、部落出身者であることが理由で破れた初恋は心に大きな影を落としていた。「一般の子とは生涯つきあえない。同じような出自の子なら、裏切られて傷つくこともない」。そう思いながらも、部落という壁を乗り越えて自由に恋愛したいと強く願う。ふたつの思いの狭間で揺れ動く気持ちは、おとなになったあとも変わらなかった。
 村﨑さんが20歳になると、父は「東京へ行って、猿まわしを全国に広めてこい」と告げた。2週間分の生活費だけを渡され、猿の次郎とともに東京へ。"初舞台"は休日の歩行者天国でにぎわう、銀座数寄屋橋の交差点だった。「東京を知らないからこそできた。知らないというのは本当に強い」とふり返る。
舞台の太郎・次郎 テレビ出演をきっかけに「太郎次郎」コンビは人気を博し、公演依頼も相次いだ。猿まわし復興の足がかりを築き、30歳の時には芸術祭賞を受賞。アメリカでの舞台公演も成功させた。
 しかし、人間関係では試練の連続だった。21歳で結婚するも27歳で離婚。背景には部落差別があったと感じている。さらに28歳で父が他界、兄弟間で後継をめぐるいさかいが起こる。孤独に耐えられず決断した2度目の結婚はすぐにうまくいかなくなった。夜ごと、弟子たちに愚痴をこぼしながら悔し涙を流す。「どうせおれは部落だから」。  
 そんな状態が何年も続いたある日、現在の妻である栗原美和子さんが現れる。ドラマプロデューサーだった栗原さんは「太郎次郎」をドラマ化したいと考えていた。当時46歳で、うつ病を抱えていた村﨑さんには信じがたい申し出だった。同時に、「自分のすべてを肯定してくれる人があらわれた」と思い込んだ。ドラマの収録が終わるのを待ってプロポーズするも、栗原さんの返事はあいまいだった。最初のプロポーズから1週間の間、猿まわしの歴史や仕事に対する思いを話し続け、最後の最後にようやく自分が部落民であることを打ち明ける決意をする。

 自分が部落出身者であることを吐き出したいと思いながら、のどまで出かかっているのに言えないんですよ。どうしても自分を制御しちゃう。栗原さんにも、最初のプロポーズをしてから一週間、毎日会って話をしているのに言えなかった。もちろん、部落出身者がみんな同じではないでしょうが、ぼくみたいな人はわりと多いんじゃないのかな。貧しかったり、我慢することが多かったりして自分を抑えこむ。あるいは差別に負けたくないと思うあまり、「一般」の人を否定しようとする。いろんなことが影響しあうんですね。
 ぼくが部落出身者であることを話したうえであらためてプロポーズすると、栗原さんは「ならば、結婚します」と言いました。痛みを経験してきた人だからいい、その痛みを乗り越えてきた人だからいいと。身内以外で初めて、部落に生まれたことが素敵みたいに言われたわけです。その言葉を聞いて、「自分は愛されないんだと思い込んでいたけど、愛される存在なのかもしれない」と思った。たったひとつの言葉だけど、それがぼくにはすごく大きかったんです。それがきっかけで、うつ病はどんどん回復していきました。

差別のなかで一番ひどいことは無視すること

 ずっと自分が差別される立場で話してきましたが、ぼくのなかにも差別意識はあります。ハンセン病の療養所を次郎といっしょに訪ねることが決まった時のことです。一瞬、「猿には感染しないだろうか」と不安を抱きました。入所している人たちは完治していることや、ハンセン病の感染力はとても弱いことなど知っているにもかかわらず、です。だけど差別する気持ちを頭から否定しても、差別はなくなりません。差別されている人と出会い、自分のなかにある偏見を実感するのが大事だと思う。差別のなかで一番ひどいのは無視することなんです。
 ぼくと栗原さんの間には結婚してからもいろいろな葛藤がありました。何回もぶつかった。今思えば、ぼくは自分が差別されていることにいっぱいいっぱいで、彼女の立場や気持ちを考えられなかった。ぼくは、差別される「こっち側」と、差別する「あっち側」があるととらえていたけど、実は「こっち側」にも「あっち側」にもいろんな問題があることに気づきました。
 今、全国を旅しています。たくさんの人と出会い、自分のことを語り、さまざまな人の話を聞いています。差別されて傷ついたり、人を傷つけてしまった経験を語るのは苦しい。だけど自分のことを語らずに社会や他人を批判することに嫌気がさしんたんですね。とにかく自分に正直でありたいと思ったんです。そして、みなさんにも「もっと話しませんか」と語りかけているんです。
 最初に出した本『太郎が恋をする頃までには…』で、自分が被差別部落の出身であることを公表しました。それ以来、最初の妻との間に生まれた娘や息子たちがぼくと会うのを避けるようになりました。そして実はぼくのほうも避けています。もっと優しく、「ちゃんと会って話をしよう。説明するよ」と言えばいいのかもしれない。でもまずは自分で考えてほしいという気持ちがあるんです。ぼくが自分の出自を公表したのは間違いだったのか? 優しく教えれば、差別される苦しみを理解できるのか? 誰か教えてください。
 しばらく旅は続きます。自分のことでいっぱいいっぱいだった自分は、そう簡単には変われない。でももっといろんなことをわかりたい。そう思い続けて、語り続けることで、「あっち側」と「こっち側」に橋をかけたいと思っています。

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プロフィール

1961年、山口県生まれ。17歳で初代次郎とコンビを結成し、日本に途絶えた猿まわしを復活、次郎の“反省”ポーズで全国的な人気者になる。1991年「文化庁芸術祭賞」受賞、92年にはアメリカ連邦協議会から「日本伝統芸」の称号が授与された。2007年11月栗原美和子さんと結婚。翌08年、被差別部落出身者であることを公表。09年に自叙伝『ボロを着た王子様』を発表。ここ数年は日本各地の農家や漁村、限界集落、ハンセン病療養所や原爆被爆者のご家族等を訪ね、共に語り合う「出会いの旅」を続けている。

 

『橋はかかる』

『ボロを着た王子様』

『太郎が恋をすることには』