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ふらっとへの手紙

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2010/02/05
ふらっとへの手紙from西宮vol.2


年を取っても、認知症になっても、人間らしく生きていきたい「つどい場 さくらちゃん」理事長 丸尾多重子さん

長年の介護生活で感じた社会からの隔絶感

 私の人生はずっと介護の連続でした。祖母が今でいうアルツハイマーで、介護に明け暮れる母を見て育った私は、子どもの頃から母のグチを聴いたり、できることを手伝ったり。3人のきょうだいがみな病弱だったので、両親を支えるのは自分という思いが自然に身についたんでしょうね。20歳の頃には、骨折した祖母の介護で半年間も病院に泊まり込んだこともありました。
 祖母の死後、15年ほど東京で食に関わる仕事に就いていましたが、高齢になった両親の希望もあって関西に戻ったのが1993年。小料理屋を始めようとした直前に、78歳の母が肺がんで入院してしまった。無事手術を終え在宅介護を始めた翌年には、あの阪神大震災です。いずれ開店しようと賃料を払い続けていた店舗は全壊し、同じ年に母は息を引き取りました。
 その間、20代から躁うつ病に苦しみ入退院を繰り返していた次兄の介護も同時進行でしたけど、母の旅立ちから1年半後、54歳で自らの人生を絶ってしまったんです。それと前後するように、元気だった父が87歳で脳梗塞に。後遺症で両足が不自由になった父の介護を続けながら社会との隔絶感に苦しみ、「仕事がしたい」「人と世間話がしたい」という思いにかられることもありました。実家は西宮とはいえ奥まった山の中で、孤立感は募るばかり。ただ救いだったのが、有能な訪問看護師さんとの出会いでした。いろんな情報を得て、多くの人とのつながりのきっかけをいただけた。お陰で父の6年間の介護生活の間には、ヘルパー2級の勉強会に通い、各種の講演会やセミナーにも参加する日々。そんな中、父が突然の誤嚥性肺炎で入院することになり、高齢にもかかわらず完治して退院した翌日、あっけなく逝ってしまったのです。93歳でした。

「何か変や、それって変や」の思いから

 10年間で3人を看取り大きな喪失感に襲われた私は、その後の半年ほどは精神的バランスを崩してしまいました。しかし、自分の在宅介護に後悔や無念さがあるなら何かやらなければと、新聞記事でふと目に止まった「ヘルパー1級の取得講座」を受けることにしたのです。その最後の実習が特別養護老人ホームでの入浴介助。その場で目の当たりにしたのが介護現場のすさまじい実態でした。
 泣き叫ぶばあちゃんがストレッチャーに乗せられて風呂場に連れて来られたやいなや、長靴にビニールの前掛け姿で待ち受けるスタッフが、まるで魚を洗うようにホースでジャッーとばあちゃんにお湯をかけ始めたのです。その「入浴光景」があまりにショックで、ぶちギレてしまった......。「これは何かせなあかん!」と、施設から家に帰るまで泣きっ放しでした。そして、翌日には不動産屋に飛び込み、1カ月後にオープンしたのが「つどい場さくらちゃん」です。
 父の介護中に始まった介護保険にも、いくつかの疑問がありました。同じ市内でも場所によってサービスがあまりに違うこと、介護の社会化という名のもとデイサービスなどで年寄りは家から施設までマイクロバスで送迎され、町から姿が消えてしまったこと......。「何か変や、それって変や」の思いです。核家族が増える中、じいさんばあさんがいない社会で子どもがよく育つとは思えない。また、施設に押し込められたお年寄りが、そこで楽しいならともかく、無気力で無表情なのはなぜ? 私が思う老後の幸せって、いろんな人の中でしゃべったり、笑ったり、普通に過ごせる暮らし。昔から年寄りって縁側とかでボッーとしてましたけど、猫やら孫のお守りという役割がちゃんとありました。その役割を介護保険はどんどん取っ払ってるとしか思えない。さくらちゃんでは「老後も人間らしく」生きていけるように、介護保険では無理な分野を補っていけたらと考えています。
 スタートして7年。ここに集ういろんな世代、いろんな立場の方を見ていて痛感するのが、介護者がニコニコできていたら介護される方も安定されてること。介護者に良い顔をしてもらうためにも、こんな場所が必要ではないでしょうか。私はいろんな人に会いたいし、人が好き。さくらちゃんの運営は経済的には大変でも、私自身が楽し んでいます。(談)

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●「つどい場さくらちゃん」のHP
http://www.tsudoiba-sakurachan.com/

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