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ふらっとへの手紙



ふらっとへの手紙 「クローバー」代表 藤田和子さん vol.2

2014/02/07


若年性認知症になっても、働き続けられる社会であってほしい  若年性認知症問題にとりくむ会「クローバー」代表 藤田和子さん



絶望感に押しつぶされそうな日々でした

 45歳で「若年性アルツハイマー病だろう」という宣告を受けた私は、それ以来、日常生活を送りながらも病気への恐怖や不安と闘う毎日でした。

 アルツハイマー病について調べると、自分らしく過ごせるのは長くて5年ぐらい。最後は寝たきりになってしまい余命10年程度といった悲観的な内容ばかりで、自分が人に迷惑をかけながら生き長らえるなんて耐えられませんでした。

 その頃は車を運転していても、ここで電柱にぶつかったら、この川に飛び込んだら死ねるのにと考えることも。その一方で、命の大切さや尊さを子どもたちに教えておきながら、母親がそんなことをしてはいけないという気持ちもあって思いとどまる...、そんな葛藤がありました。

 不安というのは精神まで追いつめてしまうのしょうか。なぜこんな病気になったんだろうと思うと、同居していた義父母の10年余りの介護も、子育ても、すべて私一人でやってきたという想いがどっと押し寄せてきました。

 夫は穏やかな人で、できる範囲では手伝ってくれていたのに、一番身近な人だからこそ「全部あなたのせいだ!」と怒りをぶつけ、夫に触れることも嫌になった時期がありました。パニックになって過呼吸になったこともあり、娘3人に守ってもらった感じです。夫は私に強く言えなくて、私が不安定にならないように、すべて飲み込んで受け止めてくれていたのかもしれません。

  辞めざるを得なかった仕事

 病気になってからも、個人病院での看護師のパートは続けていました。仕事の内容はだいたい決まっていましたが、簡単な文字がうまく書けないことや、普段使わない検査器具の使い方を思い出すのに時間がかかることもありました。

 また、スピードが求められる仕事で戸惑ったり、患者さんを目の前にして採血の仕分けがスムーズにできなくて焦ったり。受付で次の患者さんを呼ぶ時に、寸前に見たカルテの名前を忘れてしまい、ドギマギしながら自分なりの工夫でなんとかこなしたこともありました。とにかくミスをしたら病院に傷がついてしまうので、すごく気を遣っていました。

 同僚には病気のことも不安な気持ちも伝えていましたが、私がそんなに無理をしているようには見えなかったようです。でも実際は、緊張続きでかなり神経をすり減らし、帰宅するとくたくたで横になって休まないといけないほどでした。それから夕食の用意をしていたので、考えてみると混乱もすごかったです。

 結局、看護師の仕事は2008年の3月に辞表を出しました。院長も含め、同僚もまだ続けられるのではと言ってくれたけれど、5月になると市の健康診断などで患者さんが増え、仕事がより煩雑になるので、自分でもう無理だと思い決断しました。

 もし私のフォローのために看護師を1人増やしてもらえたら、作業負担が減って続けられるかもしれないと看護師仲間には話していましたが、当時の私は院長にそこまで頼めませんでした。

 でも、今後、若年性認知症になった人が働きたいと希望した場合、どのようにサポートすれば就労の継続が可能になるのか、患者それぞれに合った方法を考えてもらえる社会になってほしいと思います。

 初期の場合は、頑張れる範囲も自分で分かるので、「ここをフォローをしてもらえれば続けられるのでお願いできませんか」と上司に掛け合えるぐらいの職場の理解があってほしい。早期発見で進行を遅らせることが可能になってきた今の時代に求められることではないでしょうか。

アルツハイマー病の保護者もいます

 その一方で、仕事と並行して子どもたちの学校の役員も続けていました。長女のほうは専門学校の役員会を1回忘れた程度です。でも当時、中二だった三女は、学校のことで問題を抱えていて、私の病気のせいで余計に辛い想いをさせてはいけないと思い、担任にも病気のことを打ち明けました。病気を考慮した上で娘に対応してほしいと思ったのですが、担任は「こんなにしっかり話されるのに?」と病名に困惑されただけのようでした。

 教師の捉え方はそれぞれで、翌年の中三の担任は私のやりにくさを少しでも理解しようと努力し、自分のできることは何かを考えてくださった。

 アルツハイマー病だと、たくさんの人が集まる場所で交わされる会話を耳にすると、頭が混乱してしまいます。進学説明会などでも多くの資料を一度に見せられると、スムーズに理解できず冷や汗が出てくるのですが、そういう時も担任は必要な内容を分かりやすくまとめて、手渡しで説明してくれました。

 保護者の中にはこうしたアルツハイマー病のような病気を抱える親がいることを学校関係者には知ってほしいです。

学校教育の中で子どもへのアプローチも必要

 若年性認知症患者には、私のように下の子が中学生という場合や、中には小学生、幼稚園児を抱えた人もいます。そういう困難を抱えた親と暮らすようになった時、病気への理解を促し、必要とされるサポートを一緒に考えてくれる教育者が必要です。

 子ども自身も将来、アルツハイマー病になる可能性がないわけではありません。今のところ、早期発見・早期治療が唯一の予防法であり、進行させない・初期状態を維持することも予防であることを、子どもたちに伝えていくことが大切です。

 それを実現させるためには、これまでのようにアルツハイマー病になるといきなり物忘れが始まり、すべてが分からなくなるという誤った理解ではダメだと思います。

   現在、長女と次女は結婚して、孫も一人できました。わが家の場合、結婚相手のご両親には理解してもらっていますが、世間では親が認知症だからという理由で破談になるケースも多々あるようです。また、親が認知症であることを子どもに伝えないケースもあると聞きます。

 認知症は誰もがなり得る病気です。私は自分自身が若年性認知症になったからこそ伝えたいのです。適切な治療を受ければ、こうして安定した状況でいることも可能なんだということを。そして、みんなに支えられながら生きられること、仕事も簡単にあきらめるのじゃなく、支えがあれば継続する方法もあるんだということを多くの人たちに知ってほしいと思います。(2013年11月14日談)



若年性認知症/65歳未満で発症する認知症。厚生労働省によれば2009年の調査で若年性認知症者数は3万7800人。専門家によると、実際にはその3倍とも言われる。そのうち39.8%が脳血管性認知症、25.4%がアルツハイマー病、そして頭部外傷後遺症、前頭側頭葉変性症、アルコール性認知症......と続く。若年性認知症の場合、自分自身の異変に気づくのは本人で、年齢が若いだけに生活への不安や精神的な葛藤は相当深刻である。


藤田和子(ふじたかずこ)
1961年鳥取市生まれ。看護学校卒業後、看護師として市内の総合病院に9年間勤務。同居する認知症の義母、及び義父を10年余り介護の後、個人病院に復職し8年勤務。2007年6月に若年性アルツハイマー病と診断され、翌年退職。10年11月に若年性認知症問題にとりくむ会「クローバー」を設立。11年11月から鳥取市差別のない人権尊重の社会づくり協議会委員。