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部落

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2002/11/08
重い扉をこじ開け、部落の内側から外側へ 熊本理抄さん


部落解放運動なんて関係ないと思ってた

生まれ育ったのは九州の被差別部落である。
「部落の人が努力しないから部落がよくならないんだ。あんな人たちと同じになりたくない!そんなふうにずっと思ってた・・・ヒドイでしょ」
ただただ、部落の「まったりとした空気」が嫌だった。いまでこそ、さまざまな権利を奪われてきた結果だということも理解できるけれど、当時は貧困も低学歴も「個人の努力不足」だと感じていた。
「弱い立場にある人々の弱点を指摘しながら、“わたしはこんな人たちとはちがう”という見下し意識で自己肯定していたんです」
あのころの心境を、そう分析する。「部落を悪くしているのは部落の人たちの努力不足じゃないの?」、と。

熊本理抄さんの写真 そんな理由で地元の中学校に通うことを避け、母親に無理を言って私学の女子校に越境入学を果たす。お嬢様学校では部落出身者であることを徹底的に隠し続けた。さらに高校は校区外の進学校に合格、その後念願かなって生まれ育った地域を遠く離れて大学生活が始まる。内側はエリート意識でいっぱいにして外側は出自のコンプレックスをずっと抱きつづけながら、カナダに留学。結果的にはこの留学によって自己の課題と向き合うことになる。
内側にはさまざまな葛藤をかかえながらも熊本さんの進学、就職はまさしく順風満帆だった。IMDARの専従職員になるときも「就職、どうしようかなー」と思っていたときに親戚が持ってきた解放新聞で「国際人権」の文字をみつけて応募。合格。

部落民のすべてが学歴がなく、就業の機会を奪われてきたとは一概に言い難い。トップクラスの進学校から有名大学を卒業し、いわゆるエリート職に従事している人々が少なからずいる。しかし、そうした人々の多くが出自を隠し、ふるさとを偽る。戸籍から変えてしまうという場合もある。
これまで多くの部落民が部落民であることをリスクだととらえてきた。
「部落の人のコンプレックスでしょ、っていう人がいるけど、決してそうじゃない。やっぱり部落外の大多数の人たちによって決められています。たとえば『そこにいるわたし、ありのままのわたし』に出身地や居住地域で部落民というフィルターがかかってしまうでしょ。みんなそのことが怖いんです。被差別部落に対するイメージって、いまでも決していいとは言えません。ありのままの『私』をみてもらえない」。
熊本さん自身も“部落外の目”にとらわれて『ありのままの私』を認めることができなかった。目標を掲げ、努力を続けて「人もうらやむような」キャリアを身につけたところで出自の問題はずっとついてまわる。
「逃げないで向き合う」きっかけは何気なく選んだ留学先、カナダでの生活だった。

カナダから部落が見えた

カナダでの写真
留学先のカナダで出会った子どもたちと。(左から4人目が熊本さん)

大きな転機となったのは、留学先のカナダで先住民族の人たちとの出会いだった。
「彼らと生活を共にするなかで、マイノリティの問題から被差別部落を考えたし、それが自分自身の課題につながっていることがわかってきました」
部落を離れ、日本を離れて部落の問題が見えてきた。
自分自身が生まれ育った環境、かかえてきた課題は世界のマイノリティたちとつながっている。
まさしくthink globally act locally。NGOのスローガンそのままに、熊本さんはカナダから、生まれ育った地域の問題を見つめ、考える人になった。
逃げまくってきた部落問題。解放同盟の運動を批判してきたけれど、じゃぁ、私なりに部落問題を考えたことがある?解決の方法を考えたことがある?そう考えていくと避けてきた問題が「部落問題、面白いやん!」に変わった。部落差別との出会い方や向き合い方はいろいろあっていい。部落解放運動にも、まだまだ手をつける余地がある。何かできる!熊本さんの心の奥で何かが目覚めた。
しかし反差別国際運動日本委員会(IMADR)の専従職員になると、部落解放運動を経験していないことが、逆にコンプレックスになってしまう。

「運動のことは本当に知らなくて、でも同時に、『知ってるふり』『知ってるつもり』で、自分は守りながら人を傷つけていたことにたくさん気づいて、それから人権問題について必死に勉強しました。部落問題、人権、フェミニズム・・・人生の中であんなに本を読んだことはなかった」
真面目に“歩く人権辞典”をめざしていた時期もあったという。どこから、何を問われても対応できる、人権のオーソリティーにならなければ、と必死だった。その頃から、いまも新しい運動のかたちを模索し続けている。
しかし、リーダーという役割を担えば、そこには牽引する者とついていく者という関係ができる。どのような新しい運動でも、ピラミッド型なら、そこには牽引する者とついて行く者という関係ができる。人権問題を学んでいく中で部落解放同盟という組織・運動の言葉や論理を「付焼刃(つけやきば)」のままで使って、その意味するところを深く考えることもなかったことに気付いた。肯定、批判、どちらでも自分の中に取り込んで考えたうえで、自分の言葉として、息吹を与えながら発言していただろうか・・・・。それは、一個人として「受け入れても、積極的に考えようとしない」という怠慢だったのではないだろうか。
「個人として考えて、個人として言葉にして、個人として行動して、個人の対等なつながりを大切にしていきたい」
タテではなくヨコに。できれば不定形に。
社会を変える力は、個人のつながりの中から生まれてくると思う。だからこそ、従来型の運動の形式に縛られたくない。悩みに悩んだ末にIMADRを離れた。

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