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2002/11/08
重い扉をこじ開け、部落の内側から外側へ 熊本理抄さん


一人称で語る おんな ぶらく じんけん

被差別部落の女性は、本当に自らを語ってきたのだろうか。日本最大のマイノリティ・グループというカテゴリーの中で、多くの女性が複合的な差別環境を受け入れている。その一方で、こうした問題からあえて目をそらし、「フツーに生きること」にこだわり続けている女性たちもいる。特別ではありたくない、みんなと同じがいい。とかくマイナスイメージになりがちな部落出身者という「しるし」をぬぐい去ることはできなくても、なんとか隠し通して平凡に生きたい---。熊本理抄さんも、ずっとそう思ってきた女性のひとりだった。

重い扉をこじ開け、部落の内側から外側へ 熊本理抄さん

差別との向き合い方はいろいろでいいんじゃない?

部落の子らしさ。
熊本さんは、ずっとこの言葉から逃げてきた。
部落の子らしいことがいいことだという肯定感を持つことができず、「部落が嫌で嫌で、早く出てやろうと、ずっと思ってた」。よもや部落問題をテーマに活動する熊本理抄など、彼女の未来地図には存在するはずもない。部落とはぜったいに関係のないところで仕事をし、結婚する。人権や差別の問題とは無関係に生きて行くつもりだった。
それにしても、部落の子らしさというのは一体何なのだろう。
部落外の人が言葉遣いや服装、あるいは職業から「あの人は同和地区の人だ、部落の人間かもしれない」と言えば、そこにはあきらかに差別的な“気分”が含まれている。「わたしたちとはちがう人」「わたしたちより貧しく、環境の悪いところに住んでいる人」というイメージの差別。部落外の人が作る「部落の人」というステレオタイプのイメージ。
反対に、「あんたは部落の人らしくない」と言われるとそれは“褒め言葉”になる。
では、部落の人が語る部落の子らしさって?
差別に負けない強い子、解放運動をしている子、粗野だけれど気取っていなくて明るい子、学校の勉強はできないけれど、優しくて、人柄のいい子。部落のすべてを引き受けて部落民であることを誇りに思い、堂々と生きようとする子・・・?熊本さんは、これらのいずれのイメージにもあてはまらない。むしろ「脱・部落の子」をめざして生きてきた。

「ドロドロのエリート意識っていうのかなぁ、とにかく部落で生活している人たちのぬるーい感じが嫌で嫌で。どうしてもっと努力しないんだ!ってずっと思ってた。むしろ部落の人たちが、甘えているように見えたのね」

熊本理抄さんの写真 部落が怠け者の吹き溜まりのように思えてならなかった。最低レベルとはいえ、部落に暮らしている限り、何とか生きていくことができる。わざわざ地域外に出て不当な差別を受けるよりと、生活も、就職も、結婚も“内向き”になる人たちがいる。
かつて、極限の貧しさを強いられた部落の子どもたちは学校に通うどころか、日々を生きることで精一杯だった。そうした人たちがやがて親になって、子どもに勉強を教えたいと思っても教えることができない。学習の習慣のない家庭で育った子どもたちはまた学校の勉強についていけない。できないことがあきらめにつながり、やがてそれは選択する職業の幅の狭さにつながっていく・・・。部落の人々が部落外の生活を苦痛に感じて“内向き”の暮らしを選択せざるをえない一因はこうしたところにある。
差別が生み出した貧しさは、長年の習慣や環境というかたちでいまも部落に生きる人々に影響している。部落解放運動は、こうした悪循環を断ち切るためのものでもあった。熊本さんが解放運動を正当に評価できるようになったのは、差別の問題と本気で向き合うようになってからだった。
熊本さんの差別問題に対する「目覚め」は決して早い方ではない。まっすぐな正義感、というより拒絶と葛藤をくりかえし、ずいぶんと屈折して紆余曲折を経てきた。しかしその間、子どもの頃から周辺にあったものを把握し、咀嚼(そしゃく)し、じぶんの言葉で考えて、問題と向き合ってきた。寄り道は無駄ではなかったと思う。だからこそ、差別の問題に取り組むときに「こうあらねばならない」ということはないと思う。向き合い方はひと、それぞれ。その多様性を認めあいながら問題解決の方向性を探っている。

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