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2004/10/22
ともに語り、ともに重い荷を肩からおろそう


昨年の自殺者数が3万4427人と過去最多となった。日本のどこかで自ら命を絶つ人が、毎日約90人も。その数だけ増えるのが自殺遺族、遺児である。とくに残された子どもたちは、必要以上の何かを背負い、その大きさや重さを消化できないまま大人への道を歩むことになる。同じ体験をした人たちに呼びかけ「親の自殺を語る会」を開く佐藤まどかさん(43歳)も、重すぎる荷を抱え、見通しの悪い道のりを一歩一歩踏みしめてきた一人だ。

ともに語り、ともに重い荷を肩からおろそう

 

封印された「あの日」

佐藤まどかさん(43歳)が父を自殺で亡くしたのは、鹿児島に住んでいた中学3年の時。父の経営する会社が不渡りを出した翌日で、修学旅行中の出来事だった。旅先に父が急病という知らせが入り、急きょ自宅に引き返すことになったのだ。先生たちが目を潤ませてタクシーを取り囲み、「頑張れよ。気を落とすな」と送り出された時点から、「ずっと現実を生きてきていないような気がする」と話す。
帰宅後、亡くなった父との対面。「眠っているように安らかでしょう」と誰かの声がしたけれど、いかにも苦しそうにしか見えなくて、なぜかくやしかった。
現実的ではない現実が進行する中で行われた葬式。とびとびの記憶では、「お父さんが死んだんや」「だれかのお葬式やな」「ここでは泣いたほうがいいのかどうか・・・」などと、バラバラの感情が交錯した。両親は再婚同士で、佐藤さんにとっては2人目の父親。葬式では父の実の子である兄と妹が前に、姉と佐藤さんは後ろに並んだ。負けず嫌いの彼女は 父親が死んだことで運命に負けるのはイヤという思いから、絶対うつむかなかったという。悲しみにおそわれたのは、父の身体が消えてしまってからだ。
父の死が自殺らしいということは、周囲の会話から耳に入ってきた。新聞にもテレビのニュースにも出たのに、家族みんなが知っているのに、誰も語ろうとしなかった。暗黙のうちに口にしてはいけないこととなった。

 

私のせいかもしれない・・・

佐藤さん写真 修学旅行に行く日、集合場所の駅まで車で送ってくれた父。降りた直後に同乗していた友人が「まどかのパパ、元気ないね」と言ったのに、気にも留めなかった。その夜の死である。「友人さえ気づいたのに、なぜ私に分からなかったのだろう。あの時振り返って、父の最後の姿を見ておかなかったんだろう」との思いは、「もしあの時、元気のないパパに気づいていたら、死ななかったかもしれない。もし私が大人だったら、助けてあげられたかもしれない」と自分を責める気持ちへと移行していった。
「自殺については、いまだに誰からもきちんと聞いていません。親戚から脳いっ血だったと聞いただけ。母は真正面から子どもと向け合えない人で、父の死についての説明は一切ありませんでした」
不幸にはどんどん蓋をしていくタイプの母親からは、最初の父との離婚についても何も聞かされていない。いつの間にか父が家に帰らなくなった頃、「離婚したことはだれにも言ったらダメよ。死んだと言いなさい」と言われた。再婚した時にも、「本当の家族じゃないとみんなに言わないのよ」とひと言。学校で友だちに何かを聞かれても適当にごまかし、隠し続けてきた辛さ。さらに辛かったのは、それまでの隠し事とは比較にならないほど大きな事件だった父の自殺も、なかったことにしなければいけないことだった。

 

求められた「いい子」

葬式後、親戚の叔母たちから釘をさされた。「お母さんは苦労して育ててくれたんやから、お母さんのためにいい子でいてね」。仕事の残務処理に追われる母と高3だった姉は鹿児島に残り、佐藤さんは吹田市の叔母に預けられた。兄と妹も母の元で暮らすことを望んだが、母一人への経済的負担を考慮し、父方の叔父の家へ。複合兄弟でも仲良しだったという4人、「別れても手紙のやり取りはしようね」と話し合っていたのに、連絡はいっさい取れなくなった。母娘3人が吹田で一緒に暮らし始めたのは、姉が高校を卒業してからだ。
「転校してからは、すごくいい子を一生懸命つくってきた。学校で明るいと言われれば喜ぶ母を見て、高校時代はずっと笑って過ごしてきました」と佐藤さん。
母が相談をもちかけるのは姉のみ。自分は子どもらしくいることが母の癒しになるんだと「気づかないふり」や「無邪気で寂しくなさそうなふり」をするのが役目だと思って育ったという。

高校卒業後の進路を決める時、小さい頃からの夢だった養護施設の先生になろうと社会福祉学科のある大学進学を希望したが、周りから大反対された。「育ててもらっただけでもありがたいのに、進学したいなんてどこまでわがままを言ったらいいの」と。「何をやっても『あかん』と『ウソ』ばっかり。もう死のうかなと思ったほど」だと話す。
叔母たちにとって、とにかく不幸な存在の母。娘たちがそんな母を泣かすのは許されないことであり、母も周囲の好意に甘んじ、我が子の心の奥までは読めなかったようだ。
「母は自分ではきちんと娘を育てたと思ってたはず。先生たちから『あんなことがあったのに明るいね』と褒められていた私が陰で泣いてたことも知らないと思います」
進学はあきらめきれず1年間働いてお金をため、2つの奨学金をもらい、アルバイトもしながら短大の社会福祉学科に進んだ。それでも「家に金を入れるのが常識」という親戚。
「自立もできず、何かあるごとに自分は不幸だと人に助けてもらう母のような人生を送らないという目標を掲げて生きてきました」
佐藤さんは「お父さんが自殺して大変だったね」と誰からも言われることはなかったのだ。

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