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2005/04/15
加害者は許せない だけど死刑には反対です



死刑の停止を求める声は受け入れられなかった
初めて面会に行った時、彼はニコニコしていました。その笑顔を見て負けちゃったんですよ。なぜ面会に行ったのかというと、裁判ではわからなかったいろいろなことが彼から聞けると思ったし、謝罪も直接受けたかったからです。手紙にもいつも謝罪の言葉を書いてきていましたが、やっぱり顔を合わせながら謝罪を受けるというのが一番いいんじゃないでしょうか。長谷川君からは何百通も手紙をもらいましたが、それでも20分の面会の重みにはかないません。表情や話し方、仕草などからいろいろなことを感じ取れるのです。
だからといって長谷川君を許したわけではありません。情が移ったからと許せるほど簡単な話ではないのです。ただ、彼が本当に「謝りたい」という気持ちをもっているということは感じられました。そして僕自身、彼から直接謝罪の言葉を聞くことで、誰のどんな慰めよりも癒されていくように思ったのです。長い間、孤独のなかで苦しみ続けてきた僕の気持ちを真正面から受け止めてくれる存在は長谷川君だけだと感じたのです。

イメージ写真 しかし「長谷川君」が本当は何を考えていたのかはわからないと原田さんは言う。面会して謝罪の言葉を聞き、ある程度は気持ちが落ち着くという経験をした原田さんの心には「長谷川君には死んでほしくない」という気持ちが芽生えていた。その気持ちを原田さんは「江戸時代の敵討ちでもなく、被害者やその遺族を蚊帳の外に置く近代司法制度でもなく、被害者遺族が心を快復させるための第三の道を探り始めた、と言ってもいいかもしれません」と表現する。
「死刑とは何か。死刑制度は誰のためにあるのか」。原田さんは死刑や死刑制度について考えるようになっていた。そして「長谷川君」の3審の弁護を担当した稲垣弁護士を訪ね、アドバイスを受けたうえで「(今は)死刑を望まない」と書いた上申書を最高裁に郵送した。「一般論としての死刑廃止ではなく、長谷川君の減刑でもなく、僕が納得するまで彼と会わせてほしい、そのために死刑はまだ執行しないでほしい」という気持ちからだった。
その一週間後の'93年9月、上告が棄却され、死刑が確定した。「長谷川君」はいつ死刑執行されてもおかしくない「死刑囚」となったのである。本来、死刑が確定すると親族以外は面会できない。死刑囚の「心情の安定のため」とされている(原田さんの場合は被害者遺族という事情が考慮されたのか、確定後も3度だけ面会ができた)。「長谷川君が何を思っていたか、僕のことをどう考えていたのか、どういう希望をもって拘置所で生活していたのか、もっと知りたかった」という原田さんにとって、面会を制限されたうえにいつ死刑が執行されるかわからない状況は納得できるものではなかった。
原田さんはその後、何度も死刑停止を求める嘆願書を法務省に提出した。'01年には当時の高村法務大臣と直接会って上申書を渡した。しかし大臣と会った数ヵ月後に、「長谷川君」の死刑は執行されたのである。


被害者も加害者も排除する社会のありようを知ってほしい
死刑制度を肯定する人たちは、よく「被害者の感情を考えれば、死刑も必要だ」と言います。確かに僕も一時は死刑を望みました。だけど怒りや混乱のなかで、死刑や死刑制度がどういうものなのかも考えたことも知識もなく、感情的になっていたのです。長谷川君と交流するうちに、彼から直接謝罪を受けることが何よりの癒しになることに気づいたから「死刑にするのは待ってほしい」と何度も法務省に申し入れたのですが聞き入られませんでした。
裁判所や法務省は死刑判決や死刑執行の際に「被害者感情を鑑みて」と言います。だけど「死刑は待ってほしい」と主張しても執行するなら、被害者感情など考慮していないということではないでしょうか。少なくとも僕はそう感じています。
死刑が執行されてもされなくても、僕の苦しんできたことは消えませんし、弟が生き返るわけでもありません。長谷川君がしたことへの怒りもなくなることはありません。「被害者感情」とは、そんな単純なものではないのです。

「長谷川君」の死刑が確定してまもなく、彼の息子が自殺した。20歳という若さだった。その数年前には姉も自殺している。いずれも遺書は残されていなかったが、父であり弟である「長谷川君」のことで思い悩んだ末のことと原田さんは受け止めている。
原田さん自身は'98年に脳出血で倒れ、しばらく車椅子の生活を送った。今も後遺症を抱えている。妻とは離婚し、住み慣れた町を離れてひとり暮らしをしている。「事件」がなければ病気や離婚はなかった、とは言い切れない。しかし多くの人の人生が暗転した遠因であることには間違いないのではないだろうか。「長谷川君」の家族もまた被害者だと原田さんは言う。

原田さん写真

一番悪いのは、長谷川君や共犯者です。だけどそれだけじゃない。今の社会には「排除の構造」があり、いったん事件が起きると被害者も加害者も社会から排除されてしまう。そういう意味では加害者側の家族や親族も被害者だと思うのです。
被害者も排除されるというのは理解されにくいかもしれませんね。実際に、親族が殺された人が職を失うこともあります。「殺される理由があったんじゃないか」などと言われたりして居づらくなるのです。悲しんでいれば「いいかげんに気持ちを切り替えろ」と言われるし、笑っていれば「もう忘れたのか」と言われる。被害者も孤立させられるのです。
だけど死刑制度を支持する人は、「悪いことをしたんだから死刑でいい」「被害者の気持ちを考えれば死刑しかない」と言います。それで被害者の苦しみも解決すると思っている。僕が違うことを感じたり、死刑廃止の運動をすると、「被害者のくせして」「被害者なのに」と非難する人も多いです。被害者はひたすら加害者を憎み続け、死刑を支持し、執行されたら気持ちを切り替えなければいけないのでしょうか。
僕を非難する人に問いたい。「じゃああなたは僕が困っている時に手を差し伸べてくれましたか」「被害者の気持ちがわかるなら、その人たちのためにできることを考え、奔走しているんですか」と。
今、いろいろなところで話をさせてもらいます。すると死刑制度を支持しながら、ほとんど知識のない人が少なくありません。最低限の知識と、被害者が置かれている状況や気持ちをある程度は知ったうえで議論してほしいと思います。

(2004年11月19日インタビュー text:社納葉子)

■参考図書

「弟を殺した彼と、僕」
原田正治著 ポプラ社 1500円+税
「知っていますか?死刑と人権 一問一答」
アムネスティ・インターナショナル日本支部編著
解放出版社 1000円+税
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