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多民族共生

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2003/10/17
康秀峰さん(コリアボランティア協会代表) 差別をなくすためには愛しかない


シリーズ「私の生き方」(2)

約16万人の在日韓国・朝鮮人が暮らす大阪。中でも、生野区はその4分の1の人たちが生活する町である。同じ生野区に在日2世として生まれた康秀峰さん(54歳)は、1994年、「国籍を問わず、すべての社会的弱者の救済」をと「コリアボランティア協会」を設立した。在日コリアンと日本人スタッフが一つになって活動することで、過去の対立する関係から、違いを認め合って生きる「共生」の関係へ変わっていければと考えたからだ。「どんな差別であろうと闘ったらあかん。闘いは敵をつくり、敵はさらにバリアを張ろうとする。人間には“愛”という武器があるやないですか」。敵をも愛し、ボランティアに徹する人生だ。

コリアボランティア協会 代表 康秀峰さん 差別をなくすには、愛しかない

極貧の中で育った。週に1度しか帰らない父に代わり、女手ひとつで6人兄弟を養っていた母。「家族が餓死しないためには、五体満足に生まれた自分が働かなければ」という思いが、もの心がつく頃からあったという。6歳から足が不自由な弟の世話をし、目の不自由な家主さんに1日の出来事を話すのが日課だった。いつも家に閉じこもったままの家主さんは、康少年の話を楽しみにし、そっと手渡してくれたお駄賃。借家の家賃も取ろうとはしなかった。6歳にして人に喜ばれることは自分にとっても喜びになることや、高齢者の孤独を知らされたのである。

当たり前のようにアルバイトをしながら通った朝鮮学校。8歳の頃、働いたミシン工場の辛さが忘れられない。鉄の塊をヤスリで磨き、釜に入れて焼く仕事は子どもには荷が重すぎた。新聞配達に牛乳配達、野球場でコーラ売りもした。遅れて行けば座る場所がない小学校。雨の日は雨もりがひどいので、やかんを持って登校した。隣に立つ公立小学校が数百倍も立派に見えた子ども時代。日本人の友だちも多かったという康さんだが・・・。
「でも、僕の感覚では自由に生きている日本人は鯛で、僕はドジョウ。ドジョウは貧しく泥んこの中で生きればいいと小さい頃から思ってきました」
弟を祭に連れていっても、「朝鮮人がだんじりを引っ張る権利があるんやろうか? 町会のおっちゃんに怒られるんやないやろか?」と、子ども心に数歩引いた自分がいた。

世のため人のために自分を捧げたい

康秀峰さん 転機となったのが、高校生になって突然、リウマチにかかったことだ。強い人間になりたくて始めた空手は師範に認められるほど上達し、大好きなテニスでもコートを走り回っていたのに、その生活が一変した。重度のリウマチで背骨が変形し、どこの病院に行っても手がつけられないという診断ばかり。全身に激痛が走り、床に就くしかなかった日々。「死」の淵をさまよいながら、もうろうとする意識の中で、もっと孝行したい母や弟のこと、障害をもつ子を残して先立つ親たちの苦しみなどが錯綜した。
そんな中で天に誓ったという。「もし歩けるようになったら、世のため人のために自分を捧げるんや」と。奇跡的にも、2~3カ月後には何とか一人で歩けるまでに回復した康さん。以来、困っている人たちに尽くす道を歩んできた。

高校を卒業後、差別に耐えられず転職は十数回。22歳の時、ある喫茶店で働けることになり、喜んでいたのもつかの間。履歴書を見せると、その場の雰囲気が急によそよそしくなった。「まるでナマコかナメクジを見るような目で僕を見ていた」。今も忘れられない出来事だ。
いちばん幸せだったというのが廃品回収。気持ちのいい汗が流せ、国籍なんか関係なかった。ある化粧品会社に入社でき、セールスの売り上げが全国でトップとなったこともある。大学卒の給料が2万円の時代に、手取りが20万円。売り上げが悪くどんどん解雇されていく仲間を放っておけず、家には5万円だけを入れて、仲間の面倒を見続けてきた。儲かる仕事よりも、困っている人を助けて歩く康さんは、その後、職を失った人たちを救おうと化粧品会社を設立。メイク商品だけではなく、全身美容の必要性を唱い、いち早く美顔器などの導入を提案して会社は急成長。安定した時点で人に任せた。
「僕は生来、お陽さんにあたるのも嫌い、出世もしたくない性分。ひた向きに生きるのが好きなんです。ドジョウに生まれたからには、立派なドジョウにならなあかん」

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