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2004/07/09
闘う子供たちのために、お母さんの笑顔と安心を上げたい。


重度の心臓病で手術や心臓移植が必要となり、長期入院を強いられる子どもたち。その陰には付き添いのために地元を離れて、二重生活を余儀無くされる家族がいる。その多くは母親だが、先の見えない付き添いに精神的にも経済的にも行き詰まってしまう人がほとんどだという。そうした人々に手を差し伸べたのは病院でも、行政機関でもない。同じ体験者であるひとりの女性、梶原早千枝さん。

闘う子供たちのために、お母さんの笑顔と安心を上げたい。サポートハウス親の会 梶原早千枝さん

2002年まで日本で心臓移植手術が受けられたのは3病院のみ。そのうち国立循環器病センターと大阪大学医学部附属病院の2病院が大阪府吹田市にあることから、同市には全国から重度の心臓病をもつ子どもたちが集まってきた。
救急車で運ばれ、手術室の空きを待ったり、危篤状態が続いて2~3カ月入院することになる子も多く、中には半年、1年とかかる子もいる。そんな中で、国立循環器病センターのように完全看護の病院では面会時間以外の家族の付き添いが許されないため、家族は近くのホテルなどを利用せざるを得なくなる。交通費だけでもかさむうえに、宿泊費が月に30~40万円もかかることから、借金をする人や面会時間以外に必死に働く母親の姿もあった。

病院の長椅子で寝起きするお母さん

梶原早千枝さんの長男もそんな患者のひとり。1985年、生後2カ月で重度の心臓病と診断され国立循環器病センターに緊急入院となった。お腹をすかせ泣き出すだけで下がる心拍数。「この状態だともって1週間。ただし、手術室は1カ月先まで予約がいっぱいです」という医者の無情な言葉にうちのめされながらも、同じく手術待ちをしていた隣のベッドの子の死に、その言葉がただの言い逃れではないことを知らされたという。「自分の命に代えても死なせない」その一念で毎日、奈良の自宅から1時間以上かけて面会に通った梶原さん。長男は毎日発作を起こしながらも、奇跡的に1カ月もちこたえ、手術は成功。無事に退院できたのである。その時の感謝の気持ちが、「恩返しをしたい」と、病院で出会ったたくさんの子ども患者へと向けられた。

「最先端の技術を誇る国立病院で、人気のない廊下の長椅子に1年2カ月も寝起きするお母さんがいる。もっとショックだったのは、大阪の親戚に身を寄せて2歳の子を入院させていた若いお母さんが、入院が半年以上になると親戚にも居づらくなり、また地元に残してきた上の子が母親がいないことで自閉症気味になったと、病院側の許可がおりないままに退院して帰ったこと。その直後に病状が急変し、自宅で亡くなった。経済的にもかなり追い詰められていたようです」
梶原さんは、入院中の子にしわ寄せがいったことを知って、踏み込んだ支援が必要なことを痛感した。家族と離れ、見知らぬ土地で難病の子に付き添う母親たちに、心安らげる滞在施設があればこういう結果にならなかったかもしれないと・・・。

「心臓病児・親の会」を結成

当時は、健常者である付き添いへの福祉制度など何もない時代。行政に「付き添い者の宿泊施設を」と働きかけても、関係者からは「それだけの病気の子をもったんやから、親が子どものために努力するのは当たり前。大阪駅前に行ったらカプセルホテルでも何でもありまっしゃろう」といった冷たい言葉が返ってくるだけだった。
梶原さんは、まず自分ができることとして吹田市江坂町に3LDKのマンション(現事務局)を購入し、付き添い者の宿泊先として1泊1000円で提供することにした。そして、88年には有志3人で「心臓病児・親の会」を結成。困っている人の役に立てばと、軽い気持ちでのスタートのはずだったのだが、その噂はすぐさま行き場のない親たちに広がり、6人が限度と思っていたマンションに16人もが寝泊まりする事態になっていた。
「需要の多さに驚くとともに、この問題の根深さも知ることに。きちんと取り組まなければと認識を新たにしました」

梶原早千枝さんの写真 梶原さんらは、病院近くの団地や空家を借り上げて施設を増やし、炊事ができる部屋を1日1600円で付き添い者に提供。また、精神的にもお母さんたちをサポートしなければ子どもたちに笑顔は届かないと「ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス」として、病院の面会時間終了後はお母さんを対象に相談会や座談会を開くようになったのである。
「私たちはお母さんのためにやってるのじゃありません。入院中の子どもたちの治療成績を上げるために、お母さんを精神的、経済的にもフォローしようというもの。それは医学的に大切なことだという認識を皆さんに持っていただきたいんです」と念を押す梶原さんだ。

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