大学で映画制作について学び、卒業制作として脚本を書く段になって浮かんだのは「ハンセン病」だった。「ハンセン病を正しく理解できる映画をつくりたいという思いとともに、人をあっと言わせるものを作りたいという気負いもありました」。取材のため、夏休みに生まれ故郷へ帰り、恵楓園を訪ねた。療養所の医師から改めて、大人には決して感染しないことや感染したとしても治る病気であることなど、十分な説明を受けた。ところがいざ取材を始めようとすると、職員用トイレのノブすら触れることができない自分がいた。 訪問者をもてなすのに痛々しいほど気を遣う入所者と、正しい知識をもちながら体で拒否反応を示してしまう自分。正義感に燃え、勢い込んでいた中山さんは、自分の偽善や欺瞞につくづく嫌気がさした。もって行き場のない自分への嫌悪感を振り切るように、入所者と一緒に入浴したこともある。「患者さんたちはびっくりしますよね。私のほうは気持ちいいわけですよ。これで俺も差別者ではない、と。患者さんは優しいから、“うれしかばい”と言ってくれる。ますます気持ちいい」。しかしものの5分と経たないうちに、「違う」と思った。「頼まれて風呂に入ったわけではないのに、“ハンセン病のあなたたちと一緒に風呂に入ってあげているんだ”という思い上がりの、新たな差別意識があるのに気づいたんです」。一瞬でもいい気になった自分がますます嫌になった。 どうにか脚本を書き上げたが、自分との格闘は続いた。大学卒業後も療養所へ通い、入所者たちとの交流を深めながら自分のなかにある差別意識と向き合った。卒業制作の脚本を元に映画『あつい壁』が完成した時、32歳になっていた。 |