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偏屈でも、いいかな? その1

2007/07/26


あなたと私はかなり違う

自分の性格をひとことで表すとしたら、私の場合「偏屈」になるだろう。生まれ育った兵庫県加古川市(藤原 紀香の夫、陣内智則の出身地)では、「ヘンコ」と呼んでいた。変わり者、ひねくれ者というような意味で使っていたように思う。母親は「あの人はヘンコ や!」と自分のことは棚に上げて、よく言っていた。
あらためて「偏屈」を辞書で調べると「性質がかたよりねじけていること。かたくな」(『広辞苑』)「自分の好み(世界観)にこだわるあまり、かたくなに 人と同調しない態度を取る様子」(『新明解国語辞典』)とあった。えっ、そんなに悪い意味なのか! と自分でも驚いたが、当たっているから困ったものだ。 さすがのわが母親も、自分の息子が自他共に認めるヘンコになるとは思っていなかったに違いない。

気になるんだから、仕方ない・・

当の私も歳を重ねるごとに、ますますひねくれ者になっていくのを実感している。たとえば、はやりすたりには敏感である。それを追うのではなく、避けるとい う意味で。ベストセラー本は、物書きのはしくれとして気にならないといえば嘘になるが、妬みの対象だから、まずは読まない(ずっと前から、リリー・フラン キーのファンだったので『東京タワー』は味読したけどね)。流行の音楽も服装もテレビドラマもレストランも、私には関係がない。多くの人がよしとするもの が、私にはちっともよくないことが少なくない。余計なお世話を百も承知で、それ、ほんまにええんでっか? と聞いてみたい。
最近、若い人の間でトンボメガネ(サングラス)がはやっている。コブクロの背が高い方が愛用している、ウルトラマンの眼みたいなデカイやつである。あ れ、かっこいいですか? 街中でよく見かけるが、似合ってるな、かっこいいなと思ったことは、一度もない。
男子高校生が、ズボンをずらしてはいているのもよく見る。裾(すそ)が地面に擦れてボロボロだ。はくならはく、脱ぐなら脱ぐ、どっちかにしなさいッ!  と忠告したくなる。まあ、これらは主観の問題でもある。私がオッサンであるから引っかかるのだろう(でもまだ43歳)。
では、こんな例はどうか。仕事であれ私用であれ、メールで連絡を取り合うことが多い。いきなりメールで仕事を依頼してくる人がいる。それはまだいい。 「開封確認」を迫られることがある。読んだかどうかをそんなに知りたいのなら、電話した方が早いでしょ! 日時や場所など、電話でやり取りした方が早いこ とをいちいちメールしてくる人もいる。内容によって通信手段を考えてもらいたいのである。
一番嫌なのは、私が書いた文章の一部を、そのまま貼り付けて応答してくるメールである。たとえば最近見た映画の感想を書いたとする。「あの映画です が…」と書くべきところを、私の文章をそのまま貼り付けて、その話題について触れる。自分の文章が次々と処理されていくようで、なんだか落ち着かない。私 の知る限り、かなりの人がこれをやる。手紙を書くときに、読んだ内容をコピーし、切り貼りして自分の意見をそれに続ける、なんてことが考えられますか?  でも、メールでは許されるのだ。
引用&貼り付けが嫌であることを相手に伝えることもある。するとそれ以降、明らかに相手のテンションは下がる。最初に言いそびれると、途中から「実は私 は…」と告白しにくい。相手は変わらず貼り付けてくる。やりとりを続けていても、こちらのテンションは下がる一方だ。次第にこちらの返信は短くなり、その うち返さなくなる。メールを始めてから、私はかなりの友人、知人を失っている(そうでなくとも友人が少ないのに)。
メールの最初の「角岡様」が、「角岡さま」になっていることも多い。目くじらを立てることではない。私もいい大人だ。クッソー、平仮名で書きやがって、 と目を吊り上げているわけではない。しかし、10人中8~9人がこれだと、「いつの間にこんなことになってしまったんだ! ニッポンは大丈夫かッ!!」と 冒頭のイラストみたいな顔になってしまう。やっぱり、目が吊り上ってますか? 
以上挙げた例は、ほとんどの人は気にならないと思う。それに違和感がある私が、やっぱり少数派なのだろう(ひょっとして世界中で私だけなのかもしれな い)。しかし、「そんなことどうでもええやん」と言われても、どうでもよくはないのである。気になるんだから仕方がない。やっぱり私は偏屈なのだ。


違いへのこだわり

私は今のところフリーライターで、部落問題をひとつのテーマにしている。この問題を研究テーマにしている学者は在野を含めて少なくないが、ライターでは皆 無に近い。そもそも、なぜ私がこの問題をテーマにしているかというと、部落出身だからという単純な理由からである。しかし、当事者であるということと、そ れをテーマにすることは別問題である。部落出身者が必ずしも運動団体に共感したり参加したりするわけではない。
ではなぜ私はこの問題を追いかけているのか。他人事ではない、差別があるから……。どれも間違いではない。しかし、正直に告白すれば、他に誰もやろうとしないから、というのが一番大きいような気がする。
私は大学時代に部落解放研究部という組織に所属していた。バブル経済が始まろうとする80年代、そんな堅苦しそうなクラブに入ろうとする者は、当事者 か、ちょっと変った人しかいなかった。私の場合、両方である。あの頃、部落出身者で運動をしよう、部落問題を勉強しようという人間は超少数派だった。たと えば、私の学年では、私ひとりだけだった。結局のところ、私が偏屈だから部落解放研究部に入部したのだと思う。そして偏屈であることと、今もなおライター として部落問題をひとつのテーマにしていることは、密接に関係しているような気がする。
私は人に対して安易に「私はあなたと同じですよ」とは言わない。「あなたと私はかなり違いますよ」と言いたい。だいたい私は人と同じことをしたり、させ られるのが大の苦手である。決まった髪型や制服を強制された中学、高校が嫌いだった。会社員のころ、上司や先輩に毎日のように酒に誘われた上、会社や仕事 の話題(ほとんどが愚痴)に付き合わされるのがとても苦痛だった。
そんな私の最大のテーマは、生まれや考え方や文化が違う者同士が、どうやって共生していくか、である。どうしようもなく偏屈な私に、この世の中がどのよ うに映っているかをつづってみようと思う。興に乗れば、ルポや対談などにも挑戦したい。ただし、偏屈ではあっても偏狭にはならないよう気を付けて。
でも、こんな偏屈が書いた文章を読んでくれる人がいるのだろうか? やっぱり偏屈な人が読むのだろうか……。いや、これは失礼しました。