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特集



部落問題ありのまま vol.4

2008/06/14


「誇りだけは失うな」と、父は繰り返した

浦本さんは、1965年に兵庫県の被差別部落に生まれた。典型的な農村部落で、江戸時代から続く500世 帯ほどの村のなかで、部落の20世帯だけがポツンと切り離されている。農地を少ししか持たない部落は、貧しかった。土木工事現場のきつい仕事で生計をたて る人がほとんどで、東京の大学を出て図面が読める浦本さんの父親は小さな建設会社を経営して仲間をまとめた。その父親は、露骨な就職差別を受けて故郷へ 戻ってきている。
「相当悔しかったんでしょう、震えながら話していました」
浦本さんは、小学1年の時に父親から部落民であることを教えられた。もともと解放運動の活動家ではなかった父親だが、自分の経験から部落差別には対抗して いかなければと考えていたようだ。20世帯ほどのムラに部落解放同盟の支部をつくり、初代の支部長になった。そして子どもたちにも、「大人になればわかる が、この地域は部落であり、自分たちは部落民だ。世の中の人たちから差別される人間なんだよ。だけどこれだけは忘れてはいけない。どんな理不尽な目に遭っ ても、誇りだけは決して失ってはいけない」と教えたのだ。
「そう言われてもピンとはこなかったんですが、他の人たちと自分たちとは違うんだなと思いながら物心ついてきたという感じですね。ただ、思春期になると重くて重くて(笑)。絶対にここから逃げてやろうと思っていましたよ」
何が「重かった」のか。
「ムラのなかに住んでいる限りは、実はそれほど差別を受けることはないんです。ただ、子どもの頃から差別される立場だと言われ続けてきたから、差別される 恐怖心だけはものすごく強かった。ムラの外で人と接すると、いつ差別されるだろうとビクビクしていましたね。たとえば中学時代、周囲が楽しんでいる恋愛の 真似事みたいなことを自分もしてみたいと思うんだけど、彼女を家に連れてきたらどう思うだろうか、とか」
こんなにしんどいのは、自分の住んでいる場所が部落だからだ。とにかくできるだけ遠くに離れ、部落や部落差別とは関係ない世界で生きよう――。浦本さんはそう考え、高校を卒業すると同時に、家族の反対を押し切って東京に出た。
「テレビでしか知らない東京は、いろんな問題や事件が起こっても部落問題だけは出てこない。だから東京には部落問題はないはずだと思いこんでしまったんですね。よく考えたら、父親が就職差別を受けたんですけど」と苦笑する。

差別がないのではなく、直視しないだけ

しかし、浦本さんは東京で、あれほど怖れていた部落差別に初めて遭遇したのだった。学生下宿での浪人生活 が始まって間もなく、何かと声をかけてくれる先輩が「友人を呼んだから、遊びに来いよ」と部屋に誘ってくれた。場は盛り上がり、結婚観がテーマになった。 すると先輩の友人は、「結婚となると条件がある。どんな女性でもいいけど、同和の人と朝鮮人だけはダメなんだ」と、ごくさりげなく口にした。
「その後、どういう会話をしたのか、いつ、どんな状態で自分の部屋に戻ったのか、まったく記憶にないんです。ものすごいショックで。それからしばらく予備校にも行かなくなってしまいました」
翌年、どうにか大学に進学、「心機一転して、大学生活を楽しもう」と気を取り直すも、またもや差別発言に遭遇する。哲学の講義を担当する教授が、学生たち が勉強しないことを嘆くのに「自分の大学時代は終戦直後で、世間は食べるのに精一杯だった。自分たちは、“あいつらは特殊部落だ”と蔑まれながら勉学に励 んだ」と言ったのである。教授の発言以上に衝撃を受けたのは、事情を知ったクラスメイトたちの反応だった。「東京で部落なんて聞いたこともない。過去の問 題なんだから、そんなこと気にするなよ」と、口々に言うのである。
「一生懸命慰め、励ましてくれるんですけど、“気にするな”“今時、部落差別なんてないよ”と言われると、“過去の問題にすごく悩んで苦しんでいる自分は、まるで幽霊じゃないか”という疑問がどんどんふくらんできたんです」
混乱を深めながらも、はっきりとわかった。東京には部落差別がないというのは幻想だ。はっきりと存在する被差別部落や部落差別を無視し、あるいは“たいし た問題ではない”とことさら小さくとらえようとする。そのために、目の前で差別が起きても気付かない、あるいはきちんと見ようとしないだけなのだ。逃げて いても、差別はいつでもどこでも起こり得る。それなら逃げずに、しっかり向き合える自分になりたい。そう考えた浦本さんは、大学の部落解放研究会に入り、 部落問題を改めて学びながら、運動に取り組む仲間と出会っていった。「誇りを失ってはいけない」と言い続けた父親の言葉をかみしめながら。