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特集



部落問題ありのまま vol.5

2008/10/24


原点を探る

まずはそのバックボーンを知りたいと、ご両親にインタビューをお願いした。駅からほど近い郊外の住宅地、前庭のある純和風の一軒家が角岡さんの育った家だ。玄関の引き戸をガラガラと開けて広い三和土(たたき)に足を踏み入れると、よその家なのに懐かしい匂いがする。
迎えてくれたのは、大柄でがっしりとした体つきの父、一寛さん(77歳)と、ふくよかで柔らかい笑顔がチャーミングな母、和子さん(75歳)である。
角岡さんは、1963年に兵庫県加古川市の被差別部落に生まれた。4つ上の兄と1つ下の妹の3人きょうだいである。現在、兄は大学で英語を教え、妹は結 婚して関東地方に住む。両親はともに同じ部落に生まれ、現在にいたるまで部落外に住んだことはない。
地区にはこれといった産業はなく、大正時代につくられた大きな硫安(硫酸アンモニウム。主に肥料として用いられる)製造工場に勤める人が多かった。一寛 さんも定年まで勤め上げた。皮革など独特の産業や立地で部落であることが一目瞭然という所も少なくないが、角岡さんの生まれ育った地区は大正時代からサラ リーマン家庭が中心だった。ベッドタウン化した今では住民の7割ほどがよそから移り住んで来たという。
では地域に部落差別がなかったかというと、そうではない。角岡さんの故郷は「別府村騒擾(べふむらそうじょう)事 件」という部落解放運動史上に残る事件の舞台ともなっている。1923年、村で催された映画会での差別発言をきっかけに、激しい糾弾闘争に発展。警官隊と 衝突した部落の人たち数十名が検挙された。21名が起訴され、うち5名は実刑判決を受けている。実は一寛さん、和子さんの父親はともにこの糾弾闘争に加わ り、検挙されたのだという。人によっては隠しておきたいことかもしれないが、2人にそんなそぶりは微塵もない。一寛さんは言う。
「事件を起こしたことによって地域は一時、沈んでしまう。差別をしたほうが悪いのはもちろんだけど、それに乗っかっていくことでさらに傷つけ合ってし まった。戦争が終わるまで尾を引いてましたよ。あの事件があったから、差別の怖さをみんなが知っている」
後の世代まで禍根を残しては何のための糾弾なのかという教訓も含め、差別と向き合ってきたムラや自分たちに誇りをもっているように見えた。
しかし両親が解放運動に関わったことはない。子どもたちに、いつ、どんなふうに部落民であることを伝えようかと思い悩む親は少なくないが、角岡さんの両 親は改まって自分たちが部落民であることを話したことも、逆にことさらに隠したこともない。角岡さんたちきょうだいは解放学級で、地域が被差別部落である ことや、祖父たちの“偉業”を教えられた。
「解放学級で差別に負けないようにとちゃんと教えてくれたから。親が特に言わなくてもそれなりの知識があって、差別があってもそれぞれに対応してきたんじゃないかと思います」と和子さんが言い、一寛さんもうなずく。
実は、角岡さんのきょうだいは人生の大きな節目で部落差別を受けたことがあるようだ。「ようだ」というのは、両親は子どもたちから直接、相談を受けたこ とはないため、具体的なやりとりや苦悩を正確には知らないからである。両親は胸を痛めながら素知らぬふりをして、それぞれが乗り越えるのを見守ってきた。

被差別者としてという単純な話にはしたくない

角岡さん自身は、自分の育った環境をどう受け止めているのだろう。改めて聞くと、解放学級で教えられる「部落問題」にはどこか醒めた思いがあり、たとえば別府村騒擾事件に対しても引いた目で見ているという。
「普段からかなり抑圧されていたから、ちょっとのことで爆発したと思うし、謝罪文を求めたことに意味がないとは思わない。でもそれが今のぼくたちとどう結 びついているかが大事やねん。たとえば少し前まで学校では事件を劇にしたりしてたけど、昔の人は偉かったという話で終わってしまうと、ぼくは醒めてしま う。それをぼくらはどう考えるんやということが大事やと思う」
この姿勢は一貫している。「部落差別を許すな」と叫んだり、「昔は命がけで差別と闘った」と説教したりしても、人の心には響かない。部落民は差別される と言われるが、重要なのは差別とどう向き合うかだ。運動体の存在意義は認めながらも結局は一人ひとりの生き方だというのが、部落民としての角岡さんの考え 方だ。
もちろん、身近な人が部落差別を受ければ猛烈な怒りが沸く。しかしその怒りは「自分も同じ部落民だから」というよりも、差別という馬鹿馬鹿しくも人を決定的に傷つけ貶めるものに対する怒りだ。角岡さんは言う。
「ぼくは部落問題をテーマにしてるけど、部落問題以外にも関心をもっているテーマはたくさんある。男性としてフェミニズムに興味があるし、日本人として アジアにも関心があるねん。それも差別する、されるという関係性だけでなく、もっと大きな視点でとらえたい。だからぼくは部落問題について書いたり語った りする時も、自分が部落に生まれた被差別者としてという単純な話にはしたくないし、差別される側の人と位置付けされるのにも違和感があるねんな」