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共生は多様な文化を認め合うことからはじまる 社会福祉法人青丘社 理事長 李仁夏さん

厳しい差別をくぐり抜け・・・

 廃園となった公立幼稚園の園舎から歌声が響いてくる。在日一世のハルモニたちが歌う、朝鮮の歌。一曲が終わるごとに楽しげな笑い声に混じって威勢のよいやり取りが交わされ、さらにワッと沸く。やがて食欲をくすぐる匂いが園舎を包み込み、なごやかなランチタイムが始まる・・・。
 ここ川崎市川崎区の桜本地区には、先進的な在住外国人施策で知られる川崎市の原点がある。この「まちなか高齢者交流センター」を運営する社会福祉法人・青丘社の理事長、李仁夏(イ・インハ)さんも時間の許す限り、ハルモニたちの大きな楽しみである週に一度の“ふれあいの場”に顔を出し、一緒に踊り歌い、昼食をともにする。老いるにつれて日本語を忘れてゆくハルモニは珍しくない。母国語でなつかしい歌を歌い、天真爛漫に踊る姿を目にするたびに、李さんは切なさと同時にこれからの共生のあり方を考えさせられるという。日本語を忘れたからといって、母国へ帰るわけにはいかない。何十年と暮らしてきた日本の社会で生をまっとうするのだ。そんなハルモニたちが安心して暮らせる場所をという願いをこめて、李さんは「キムチとたくあんの両方を口にできる老人ホームをつくりたい」と話す。


地域には焼肉店や韓国食材店が並ぶコリアンタウンもある
地域には焼肉店や韓国食材店が並ぶコリアンタウンもある
  川崎に牧師として派遣され、居を構えて43年目。李さんは一貫して地域の人たち、なかでも苦しい生活を送る人々と関わり、そこからさまざまな運動を展開してきた。牧師として「人の足を洗えるような人間でありたい」という思いはずっと根底にあったが、李さんを行動に駆り立てたのはそれだけではなかった。
「川崎市には、強制連行で朝鮮半島から連れてこられた朝鮮人が数多く住んでいました。戦後、日本人たちが戻ってくると彼らの仕事がなくなり、朝鮮人の住む地域はスラム化しました。その後の朝鮮戦争による軍需景気で、産業都市の川崎市は急激に発展しましたが、朝鮮人居留者たちは社会制度のうえでも不当な差別を受け、日本の繁栄から置き去りにされていたのです」
 李さん自身も長男の小学校入学や長女の幼稚園入園にあたって差別を受けている。日本人の保証人を求められたり、幼稚園長に「向こう岸(朝鮮人居留者たちが多く住んでいた地域)の子どもは受け入れられない」と言われ、入園を拒否されるという出来事があった。

「1947年5月2日、国が新しい憲法を発布する前日に外国人登録令が出されました。“旧植民地出身者は外国人とみなす”という法律ができたんです。実は日本は戦争が終わった時点で、日本人を外国から引き上げさせると同時に朝鮮人も朝鮮半島へ帰そうとしたんですね。ところが民族教育の問題が起きたり、朝鮮戦争が起こるという厳しい状況のなか、占領軍が解放された民族、つまり在日朝鮮人をコントロールするために“形式的日本人”という位置付けにしたんです。実際には日本とは縁の切れた外国人でありながら、形式的には日本人として扱うというダブルスタンダード(二重基準)ですね」
 朝鮮人でありながら日本人として扱われる。日本人としてふるまうことを要求されながら、決して日本人として扱われることはない。矛盾した立場に置かれた在日朝鮮人たちは、母国の言葉も文化も奪われたうえに、差別から逃れるために自分たちのルーツを隠さざるを得なかった。

差別の構造はひとつではない

「ふれあい館」正面のレリーフはチョゴリ姿で舞う女性
「ふれあい館」正面のレリーフはチョゴリ姿で舞う女性

 そんな厳しい状況ではあったが、希望がまったくなかったわけではない。戦争中に日本人女性と出会い、ひそやかに愛情を育み、終戦後に結婚したのも李さんにとってはまさに共生そのものである。「朝鮮半島が日本から独立し、北であれ南であれ自らの文化や歴史を取り戻そうというなかで日本人女性と結婚するということは、時代の流れの逆をいくという話じゃないですか。ですから何度も“こういう交際はよくない”と別れ、しかしまた次の休みがくると会い・・・ということを繰り返すうちに“一緒になろう”という気持ちが固まっていきました」

 その日本人女性・幸子さんは以後、公私にわたって李さんのかけがえのないパートナーとなった。また、子どもたちの入学・入園差別に遭った時に保証人となってくれた日本人の友人は、その後も影となり日なたとなって支えてくれた。
 一方、周囲を見渡してみると差別の構造は「日本人が朝鮮人を差別する」という形だけにとどまらないことにも気づいた。日本人のなかにも、たとえば大手企業の管理職は地方から出稼ぎにきた人を差別し、朝鮮人も出身地によって同胞を差別する。「日本人だから差別する、朝鮮人だから差別される」とは限らない。
「それならば国籍や民族や障害といういろんな壁を取り払い、あらゆる人を受け入れる場所を地域のなかにつくろうと考えたわけです」

 つくるといっても土地や資金があるわけではない。李さんは教会を開放することにした。教会は信徒にとって神聖な場所であるため、当然、反対する声もあった。しかし李さんは「教会というのは建物ではなく、人そのものだ。人と人がつながってこそ、キリストの体なる教会となるのです」と説得して回った。
 そうして1969年にできたのが桜本保育園である。地域のものであるという意味を込めて、教会の名ではなく土地の名前をつけた。27人の日本人と7名の在日朝鮮人の子どもたちが集まり、日曜日の礼拝が終わるとみんなでイスを片付けて、礼拝堂は子どもたちの声がこだまする保育園となった。
 これが川崎市における日本人と在日外国人との共生の歴史の始まりである。

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