
敗戦後、日本政府は満州国に移民した日本人を現地に定着させる「現地土着方針」を出したことで引揚げが遅れ、実際に引揚げ事業が始まったのは、敗戦から1年後の46年5月からとなった。その結果、零下30度以下といわれる満州の大変厳しい冬を幼い子どもたちに生き延びさせるために、やむなく中国人の養父母にあずけた親も多かったという。さらに、59年、国は日本に帰国できない「残留孤児」が中国に多くいるという事実を認識しながらも、未帰還者特別措置法(戦時死亡宣告制度)を制定。当時、約2万1000人とされた未帰還者のうち、残留孤児ら約1万4000人が戦時死亡宣告を受けたとされる。以後、国は中国からの引揚げ事業、身元調査をすべて放棄したのである。

72年にようやく日中国交回復が実現。国交回復により、肉親を探したいという声が外務省などに多数寄せられたが、政府は戦時死亡宣告により残留孤児は法律上死亡したとして調査もしなかった。74年の終戦記念日、朝日新聞に肉親捜しの特集記事が掲載されたことで問い合わせが相次ぎ、厚生省は翌年からやっと公開調査を開始。残留孤児が国費で来日しての「訪日調査」が始まったのは国交回復から9年も後の81年から。しかも、来日調査の人数を限定したことで、調査は15年間(95年まで)にも及んだ。異国で必死に生きる孤児たちは、30年近く世の中から忘れ去られた存在だったのである。
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