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戦後60年と人権
子ども虐待
ネットと人権

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 この世でもっとも愚かしい戦争で人生を大きく狂わされた人は多い。しかし、日本という国に、また人が刻む歴史にここまで翻弄されてきた人たちは少ないだろう。「中国残留日本人孤児」と呼ばれる平均年齢68歳の人たちである。国策で送られた中国大陸で理不尽にも目の前で家族を失い、中国人として成長せざるを得なかった人たち。文化大革命が起きると反中国人と敵対視され、やっとの思いで祖国の地を踏めば、日本語を話せない中国人と社会から突き放された。「わたしは何人ですか?」と、問い続けなければならない苦しい人生。戦後60年を経た今も、彼らにとって戦争はまだ終わっていない。

置き去りにされた過去はもう戻らない。すべて孤児の責任ですか。中国残留孤児孤児大阪訴訟原告団長 松田利夫さん

中国残留孤児とは
 満州事変(1931年)を契機に、日本は32年、中国東北部に満州国を建国。当時の日本は農村の飢饉や不況など貧困問題に悩まされており、その解決策と満州国の治安維持のために、国策として36年から多くの「満蒙開拓団」を満州へ送り出した。残留孤児の大多数はその子どもたちである。
 開拓団には中国農民から強制的に奪い取った土地が与えられ、家族も含めると32万人に膨れ上がった団員は、ソ連国境近くにまで配置された。そして、45年ソ連の参戦時には開拓団の成年男子(18〜45歳)が「根こそぎ動員」され、開拓団には女性、子ども、老人、病人だけが残された。さらにソ連軍の侵攻が始まると、関東軍は軍人やその家族を逃がすことを優先し、開拓団の女性、子どもたちを置き去りにしたまま逃げ出したのである。残された人々による集団自決が各地で起こり、迫りくる死から逃れんがための逃避行や想像を絶する難民収容所生活などで肉親を失い、かろうじて生き残った幼児たちが中国人養父母に引き取られ、命をつなぐ結果となったのである。


目の前で次々と亡くなっていった家族

 大阪府堺市に住む原告団長の松田利男さん(68歳)は北海道女満別生まれ、4歳(1941年)の時に一家10人で満州に開拓団として入植した。終戦を迎えたのは8歳の時、その年に下の弟が生まれた。松田さんは遠い記憶をたどり「長きにわたって両親、祖父母とも苦労が多かったけれど、やっと家を建てて安定した頃でした」と話す。
 ソ連侵攻の情報が入ったのが、45年8月9日。徴兵された次兄以外の家族は西方のハルピンへ逃避行を図った。歩いて400キロもの道のり、食糧もなく下の弟は母の背中で餓死。やっとの思いでたどり着いたハルピンの難民収容所で待っていたのは、極限の飢えと寒さだった。チフスや栄養不良から祖父母に続いて、上の姉、父が目の前で次々と亡くなっていった。自分の命ももう長くないと察した母は弟をハルピンに住む日本人に託し、年を越した春に亡くなった。残されたのは姉と2人。
「収容所では日に何人もが死んでいく。言葉にはならない悲しさ、悔しさを味わいました。小さな子どもだから涙をこぼして、悲しみを腹に収めるしかなかった」と当時を振り返り、止まらない涙をぬぐおうともしない松田さん。その後、子どものいない中国人の養子になったが、養父母の家庭は貧しく、小学校を5年でやめて農業を手伝った。
 成長してからは独学で会計事務の仕事をするまでになった。それも文化大革命(1966年)で暗転する。大きな集会に引っ張り出され、「日本のスパイ」「反中国人民」と罵倒された。あまりの厳しい批判に自殺したいと思う日々だった。しかし、「妻も子どももいる、年老いた養父母に恩返しもしていないという気持ちで思いとどまった」と話す。「戦争で起こした罪は全部残留孤児にかぶされた」という思いだった。心労がたたったのか、71年には養父母、妻が相次いで亡くなった。

残留孤児は、なぜすぐに帰国できなかったのか
 敗戦後、日本政府は満州国に移民した日本人を現地に定着させる「現地土着方針」を出したことで引揚げが遅れ、実際に引揚げ事業が始まったのは、敗戦から1年後の46年5月からとなった。その結果、零下30度以下といわれる満州の大変厳しい冬を幼い子どもたちに生き延びさせるために、やむなく中国人の養父母にあずけた親も多かったという。さらに、59年、国は日本に帰国できない「残留孤児」が中国に多くいるという事実を認識しながらも、未帰還者特別措置法(戦時死亡宣告制度)を制定。当時、約2万1000人とされた未帰還者のうち、残留孤児ら約1万4000人が戦時死亡宣告を受けたとされる。以後、国は中国からの引揚げ事業、身元調査をすべて放棄したのである。

日中国交回復後も遅れた帰国政策
 72年にようやく日中国交回復が実現。国交回復により、肉親を探したいという声が外務省などに多数寄せられたが、政府は戦時死亡宣告により残留孤児は法律上死亡したとして調査もしなかった。74年の終戦記念日、朝日新聞に肉親捜しの特集記事が掲載されたことで問い合わせが相次ぎ、厚生省は翌年からやっと公開調査を開始。残留孤児が国費で来日しての「訪日調査」が始まったのは国交回復から9年も後の81年から。しかも、来日調査の人数を限定したことで、調査は15年間(95年まで)にも及んだ。異国で必死に生きる孤児たちは、30年近く世の中から忘れ去られた存在だったのである。



 
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