DIALOGUE(対談) おとなが出会い、語り合う夢 トップページへ
KONISHIKIさん 対談KONISHIKI 谷川雅彦 テキスト:社納葉子 谷川雅彦さん
失敗よりも挑戦しないことのほうが怖い
 

谷川 日本の社会が全体的に豊かになってきたというのに、残念ながらぼくが生まれ育った地域に対する差別はなくならない。成功した人は地域から出て行き、成功できなかった人は残るから。それがまた差別や偏見につながっていくんです。

KONISHIKI 地域のなかにも問題はいっぱいある。「あそこの息子は成功しそうだ」と思ったら、絶対に悪口を言うんだよね。ぼくも言われたことがある。それでも地域の人たちに成功した姿を見せたほうがいいと思ってやってきた。新しい車に乗っていると、子どもたちが目を輝かせて「わあ、どうしたの?」と訊いてくる。そこで「こういうふうにがんばって買ったんだよ」と説明すれば、「がんばれば新しい車が買えるんだ」ということが子ども達たちの頭に入るでしょ。
 でも、おとなは頑固で、とにかく何かを変えることを嫌がるね。ぼくもKONISHIKIキッズ・プログラムをやり始めた頃は、「コイツ、俺たちのまちで何をしようというんだ?」とうさんくさい目で見られていたよ。要するにチェンジ(変革)するのが怖いんだよね。先が見えないから。

谷川 自信がないから、挑戦することを最初からあきらめてしまっているんですよね。「どうせ無理だ」「どうなるかわからないなら、今のままでいい」と・・・。

KONISHIKIさんKONISHIKI でも、わからないからこそ挑戦しないと。ある子どもがぼくの前に座って、真面目な顔で「KONISHIKIさんにとって一番怖いものは何ですか?」と訊いてきたことがあった。思いがけない質問だったけど、よく考えてみたんだ。そしたらぼくにとって一番怖いものは“チャンスが来た時にチャレンジしないこと”だと思った。何かをやれば失敗する可能性もあるけど、やってみないことには結果もわからない。だから、まずやってみる。失敗したとしても、納得はできるじゃない。

谷川 貧困や差別は、「どうせ自分なんか」とチャレンジすることを躊躇するような気持ちを植えつけてしまったりもするんですよね。それを乗り越えるために「教育」が必要だとぼくは思うんだけど。

KONISHIKI そうだよね。だから子どもたちにはいつも言うんだ。「おまえたちはこうして学校へ行くことをあたり前のように思っているけど、これが大きなチャンスなんだよ」と。うちの地域は家族をすごく大事にするの。だから「とにかく勉強しろ!」と押し付けるんじゃなく、「なぜ勉強したほうがいいのか」を教えるんだ。「おまえたちの親は苦しみながらここまでやってきた。もうひとつステップアップするために、今度はおまえたちのがんばりが必要なんだよ。ステップアップしたら親も喜ぶよ」って。モノに例えることもある。「今はトラックだけど、がんばれば乗用車に乗れるよ」とか。

 
ちいさな経験の積み重ねが大切
 

谷川さん谷川 今、KONISHIKIさんたちが直面している現実は、かつての日本やぼくたちの地域が経験してきました。教科書や鉛筆が買えなくて学校に来られない子がいたんです。今は親たちの収入がある程度は増え、義務教育では教科書が無償になるなど教育環境も整備されてきたから、貧しさのあまり学校へ来られないという状況はありません。ただ、ぼくらの地域に限れば、親が大学を卒業している割合は低いし、肉体労働や製造業に従事している人がとても多い。つまり、仕事や収入が安定しにくいということです。とはいえ日本全体としては豊かになったことは確かですね。
 だからこそ勉強することの大切さを子どもたちに伝えるのが難しくなっています。昔はKONISHIKIさんたちと同じように「貧乏から抜け出すために」「いい車に乗るために」「立派な家に住むために」、勉強して高校へ行こう、大学へ進もうと親も子も考えた。いい高校や大学へ行けば、安定した仕事に就けて、給料もたくさんもらえると思った。そして確かにそういう一面もあったんです。
 でも今、日本の子どもたちはテレビや自転車、ゲーム、携帯電話・・とモノは持っている。食べるに困るほどの貧しさも経験していない。「がんばればこうなる」という夢や希望がもてなくなっているし、ぼくたちも具体的に示してやれないというジレンマがある。

KONISHIKI 今の日本は勉強しなくてもアルバイトはできるからね。アルバイトをいくつかやればけっこうお金になるじゃない。日本のまちを歩いていたら、貧乏な人はいないと感じるよ。若い人がブランド物をもって、いい服を着て歩いてる。だけど現実には税金も払えないアルバイトだったりするんだよね。
 ぼくが日本へ来て20年以上になるけど、日本は怖いぐらい変わったよ。外見ばっかり気にして中身がない人が増えたように思う。

谷川 日本の場合、モノには替えられない「生きることのすばらしさ」や「人間の尊さ」みたいなものを子どもたちが学ぶ機会を誰かが提供してあげないと…。

KONISHIKI それは、本当は親の仕事だよね。

谷川 そうなんです。だけどきつい仕事や生活に追われた親は、親としての責任や役割を果たせなくなるんですよね。厳しい現実から逃げたくて、ギャンブルや麻薬におぼれる親もいる。そこで親の代わりに、同じ地域で生まれ育った人が子どもや教育の問題に取り組むということがすごく大事だと思う。ぼくがKONISHIKIキッズ・プログラムにすごく共感するのはそこです。

KONISHIKI 子どもたちはすごい力をもっているし、素直だから吸収するのも早い。少し手助けするだけでどんどん伸びていくよ。そういう姿を見て、頑固なおとなたちも変わっていくんじゃないかという期待もしているんだ。

谷川 飛行機に乗ったこともない子どもたちが日本という外国へ来て、初めての経験をたくさんする。子どもたちにとって素晴らしい経験だろうなと思います。ぼくも親たちが子どもたちにしてやれない、あるいは見せてやれないものを経験させたいと、仲間たちといろいろ取り組んでます。ささやかなことでもいいから、子どもたちが「がんばれば成功するんだ」と実感できる経験をたくさんたくさん積み上げていくことが大事。

KONISHIKI 大きな目標も大事だけど、「明日までに先生に言われた宿題をパーフェクトに仕上げる」とか、今日できることをきちんとやるという積み重ねだよね。
 この間、友達と“成功”について話したんだ。彼にとっては仕事がうまくいったり、いい車を持ったりすることが“成功”らしい。ぼくは自分がどれだけ儲けたか、どんな車を持っているかより、「自分の周りの人たちが普通に生活できること」だと思う。ハワイに家を建てたけど、あんなもの、台風が来たら壊れるじゃない(笑)。相撲や芸能活動をしているけど、本当の生きる目的は人を助けること。だから今も成功したとは思っていない。まだ苦しんでいるきょうだいもいるから。
  KONISHIKIキッズ・プログラムを通じて、うまくいけば何人かを助けられるかもしれない。それがぼくの役目かな。

 
子どもたちのために働く喜びがぼくらを支える
  KONISHIKI 2004年12月に大好きな妹が亡くなった。悲しくて、どれだけ泣いたか。寂しくならないように、仕事をバンバン入れて気を紛らわせたよ。だから今まで以上に、自分が儲けることよりも人に与えることや時間が大事だと感じる。いつ死んでも納得できるような生き方をしたいんだ。

谷川 ぼくも「西成や被差別部落の環境を改善して、差別や偏見をなくしたい」という気持ちを子どもの頃からもっていました。安定した仕事をといったんは公務員になったけど、 最終的には公務員を辞めて運動に専念する道を選んだ。それはやっぱり自分の生まれ育ったまちが好きだし、自分たちでまちを変えていこうという部落解放運動が好きだから。現実は厳しくて、まちも人もなかなか変えられない。ますます厳しくなっている部分もある。それでも「よりよくしたい」と思うし、そのために自分の力を尽くしたい。こういう道を選んだのを後悔したことは一度もない。

KONISHIKI ぼくが子どもだった30年前と比べてもまだ何も変わっていないんだから、道のりは遠いよ。ぼくも谷川さんも、自分たちの力でどこまで進めるかというだけだよね。
 ぼく自身の大きな目標は、基金を集めて地域にコミュニティーセンターをつくること。小学生から高校生まで1万人以上いるのに、小さなコミュニティーセンターしかなくて、子どもたちは放課後の居場所がないの。隣町には大きなビルのコミュニティーセンターがあるんだけどね。だから学校が終わる午後2時から夕食までの6時の間に泥棒やケンカといった事件が起きるんだ。
 コミュニティーセンターには相撲のミュージアムやコンピュータールームをつくる。地域にはフィリピンや中国から移住してきたお年寄りも多いから、子どもたちに生きてきた歴史を伝えてもらう場もつくりたい。子どもたちが2時から6時まで楽しんだり学んだりできる場所にしたいんだ。

谷川 さまざまなものと子どもたちとを結ぶセンター…面白いね。ぼくの夢も、まちを変えること。具体的には、まずまち全体で「子どもたちの教育が大事」という価値観をつくりあげたい。学歴第一という意味ではなく、人間として生まれてきた以上、自分らしく生きる力を身につけてほしい。そのための基礎が学力だと思うから。
  すべての子どもたちに自分らしく生きる権利を保障していけるようなネットワークもつくっていきたい。日本では施設などのハード面は整ってきたから、これからは人やネットワークがキーポイントかな。

KONISHIKI 中身だね。設備が整っている日本がうらやましいよ、ほんとに。

谷川 でも施設があっても魂がないとダメ。今はその魂がないところがあるから。ぼくらの仕事は熱いハートをもった人たちをしっかりつなぎ合わせることじゃないかな。ぼくは「孤立させない」をキーワードに、保育所や小中学校や病院などが連携して子どもを見守る「わが町にしなり子育てネット」という活動をしています。タイのスラムで活動しているグループとも交流しているし、さらに積極的に活動していこうと「子育て運動“えん”」というNPO法人もつくりました。

KONISHIKI 同じ思いをもって支え合える仲間は大事だよね。

谷川 ひとりでできることは限られてるけど、ぼくとKONISHIKIさんが友達になれば、やれることは2倍、3倍に広がりますよね。

KONISHIKI そうそう。誰の紹介とか形式とか、ぼくはどうでもいい。子どもたちが好きで、自分がやりたいからやっているだけ。ぼくで役に立つことがあるなら喜んで行くよ。

谷川 ぜひ、西成にも来てほしいな。困難に直面している子どもや親を支援することは不可欠。それに加えて、差別や貧困そのものをなくすためには、差別や貧困を乗り越えたり、なくそうと行動する人を育んでいくことも重要だと思う。簡単なことじゃないけど、子どもたちには可能性がある。お互い、夢に向かってがんばりましょう。

KONISHIKIさんと谷川さん

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KONISHIKI(本名:小錦八十吉・コニシキ ヤソキチ)


1963年、米国ハワイ州オアフ島に生まれる。ハワイ大学付属高校を卒業後、高見山(現東関親方)にスカウトされ、高砂部屋に入門。

1987年、外国人力士として初めて大関昇進(24歳)。1989年、11月場所幕内初優勝。1994年に帰化。1997年、引退。年寄「佐之山」を襲名するも約1年で相撲協会を退職。

故郷のワイアナエ地区の子どもたちを支援するため、KONISHIKI基金を設立、同時にKONISHIKIキッズ・プログラムをスタートさせる。

現在は全国各地でトークショーやハワイアンライブ、イベントなどに出演している。

著書:『みなみのしまからのおくりもの』『Konishiki+HulaHutハワイアンダイニング』(ともにPARCO出版)など。
ホームページ:KONISHIKI


谷川雅彦(たにがわ・まさひこ)


1963年、大阪市西成区の被差別部落に生まれる。子ども時代は野球とメンコに明け暮れる活発な少年だった。

自分が生まれ育った地域が被差別部落であり、周辺に比べてまち全体が貧しいことを肌で感じながら育つ。高校時代から部落解放運動に参加、情熱をもって差別と闘う先輩や仲間と出会う。

1982年、高校卒業後、市役所に勤務。1995年、部落解放運動に専念したい気持ちが高まり、退職。現在は部落解放同盟大阪府連で主に政策の立案、行政との交渉を担う。

「わが町にしなり子育てネット」「NPO法人子育て運動えん」など、西成の子どもたちをサポートする活動も積極的に行っている。


KONISHIKI キッズ・プログラム


ハワイ・オアフ島の西端に位置するワイアナエ地区は多くの人がイメージする「楽園・ハワイ」とは環境が大きく異なる。

伝統的なALOHA精神が色濃く残る地域であり、素朴な人々が多く暮らす美しい場所である一方、高い失業率、犯罪件数の多さや低い教育水準など、多くの困難に直面している。

KONISHIKIさんは、出身地であるワイアナエ地区の経済・治安・教育の質を高め、安全で住みやすい場所へ変え、多くの人が訪れることを夢のゴールと考えている。そのために1997年、KONISHIKI Kids Foundation(KONISHIKI基金)を設立した。

主な活動として、毎年ワイアナエ地区内の7つの小学校から各5人、計35人の子どもたちを選抜、日本へ一週間招待している。ワイキキの繁華街にすら出かけたことのない子どもたちにとって、初めての海外旅行や異文化との触れあいは大きな刺激であり、学びとなる。

同時に自分たちの生まれ育った地域を客観的に見て、「よりよく変えたい」という思いをもつようになる。「努力すれば夢は必ずかなう」。KONISHIKIさんからメッセージを受け取った子どもたちは着々と次代を担う者として成長している。