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ふらっとへの手紙

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2013/04/18
ふらっとへの手紙 関西沖縄文庫 vol.2 上地美和さん


沖縄人としての自分を模索するなかで出会った、ふたつの「沖縄」 上地美和さん

大阪に暮らす「沖縄人」の第4世代

 沖縄生まれですが、2歳の時に家族とともに大阪市大正区に移り住みました。ただ、父は中学卒業後、大阪に出稼ぎに来て、大正に住んでいたそうです。当時、沖縄スラムと呼ばれていたところで、その名の通り沖縄から移住してきた人がたくさん住んでいました。「クブングワァー」とも呼ばれていました。沖縄の方言で「窪地」という意味です。

 それ以外にも大正とはつながりがあります。母方の曾祖母の兄が若い頃、大阪に出てきて家族を形成してるんですね。そこから数えると、自分は大阪に住む沖縄人としては第4世代だと思っています。

 父の話に戻ります。しばらく大阪で働いていた父でしたが、沖縄は海洋博(沖縄県の「本土復帰」記念事業として1975年7月から76年1月にかけておこなわれた国際博覧会)のブームがあり、建築業を営んでいた兄を手伝うために沖縄に帰ります。そこで母と知り合い結婚、私と1つ下の弟が生まれました。海洋博が終わると建築ラッシュも終わり、仕事がなくなったので、私たちを連れて再び大阪に出てきました。

  自然で身近だった「沖縄」と

 両親はほんとに「普通」の人たちで、特に沖縄の文化や歴史について教えられたこともありません。でも隣近所は沖縄出身の人が多くて、特に意識しなくても自然に「沖縄」があるという感じでした。最初に住んだアパートは家主さんも沖縄の人で、孫のようにかわいがってもらいました。鍵はいつでも開けっ放し。近所付き合いは、他人でもまるで親戚のようにしていました。一方で、実際の親戚もたくさんいるんです。もともと父は大阪でスクラップ屋(金属加工などの工場で出る端材を買い取る業者)をしている親戚のもとで仕事を覚えて独立しました。その親戚にはほかにもたくさんの人が沖縄から働きに来て独立していくんですが、ほとんど親戚関係のある人たちなんです。小学校にも近所にも親戚がたくさんいて、父の仕事上でも結束が強くて、子どもの頃は自然に「沖縄」が身近にありました。

 そのなかで今も印象に残っていることがあります。私はヤギが大好きなんですが、めったに食べられないごちそうでした。なのでおかずがヤギの日は大喜びするんですね。すると母が「よその人に"ヤギを食べた"って言うたらあかんで」と言うんです。「なんで?」と不思議に思いましたが、深く考えることはありませんでした。

留学をきっかけに「沖縄」を改めて考えた

 成長するにつれ、また濃い近所付き合いのあったアパートから引っ越したりもしたことから、私のなかの「沖縄」はだんだん薄れていきました。あらためて「沖縄」を考えるようになったのは、大学時代に中国へ留学した時です。留学生同士、中国語で自己紹介や自分の国の文化を紹介しあっていた時、「私は日本人です」「日本ではお正月におせち料理とお雑煮を食べます」と言った瞬間、「でもうちはおせち料理やお雑煮じゃない」と。その時初めて「自分は日本人のなかでも何か違うんじゃないか」と考えました。

 中国から帰り、沖縄のことをきちんと勉強しようと関西沖縄文庫を初めて訪ねました。どこで聞いたのか、沖縄に関する本がたくさんあると知ってたんです。最初はライブなどのイベントに参加する程度でしたが、文庫を主宰する金城馨さんと話すうちに活動にも参加するようになっていきました。

 沖縄のことを学ぶほど、自分は「沖縄人」だと考えるようになりました。同時に「運動に関わらず、沖縄のことを何も教えてくれず、自分たちの生活のことだけしかしてこなかった」と、両親を批判的に見るようになりました。

運動の力と、力強く生きてきた人たちと

 けれども、文庫に関わりながら自分なりに考えていくうちに、また違う思いが生まれてきました。沖縄の研究をする人やマスコミの人は、沖縄といえば文庫に関わる人に注目し、インタビューをします。そういう場面に遭遇するうちに、「大正区にはもっと多様な沖縄の人たちがいるのに」「自分はほかの沖縄の人たちの生活に目を向けたい」と考えるようになったのです。そこでようやく、私の両親は決して何もしていなかったわけじゃない、しっかり生きてきたんだと思い、そうした「沖縄人」を誇りに思うようになったんです。

 スクラップの仕事は真っ黒に汚れます。それで父に「差別されたことある?」と聞いたら、「差別されたことなんて1回もない」と言うんです。でも同じ仕事をしている親戚に聞くと、邪険に扱われたり差別的なことを言われたりしたことはやっぱりあったんですね。父が否定したのは、差別を感じなかったのではなく、差別されたことを私に言いたくなかったのと、差別されたことを認めたくないからじゃないかと思います。

 関西沖縄文庫を通じて運動をしてきた人たちと出会い、沖縄出身の人たちをつないできた運動の力を知りました。そして父たちのように生きてきた人たちもいる。この両方が「沖縄」なんだと今は思っています。(談)

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