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薬物で光を失った経験を、乱用防止教育、視覚障害教育に生かして。

2005/02/18


生きていく希望ができた

やめると体調が少しずつ回復していった。年齢も20歳を越え、考え方も落ち着いてくると、昔の自分を反省できるようになったという。まず、頭に浮かんできたのが人に迷惑をかけたこと。特に親兄弟には、事あるごとに八つ当たりし、荒れては家の中を滅茶苦茶にしてきたことを心で詫びた。盲学校の同級生にしても、病気や事故など自分の責任ではなく目を悪くした人ばかりなのに、イライラして人に当たるようなことはなく、ふてくされて暴れるしかなかった自分が恥ずかしくなった。
牟田さんイメージ写真「もう悲観しないようにしようと、目についての不安を言わなくなるまで3年もかかりました」
22歳になった頃から変わっていった。普通科をギリギリでも卒業でき、「あん摩・はり・きゅう」を学べる専攻科理療科に進んで勉強をするようになった。
「理療科の先生方もみんな視覚障害者。あん摩・はり・きゅうは視覚障害者にとってもっともハンディがなく、社会で自立するのに一番いい職種だと先生方は認識されているので、授業はとても厳しかった。先生方は私の過去を知った上で、他の生徒と分け隔てなく熱心に指導してくださったんです」
それだけ勉強に身が入ったと話す牟田さん。理療の実習では「お陰で軽くなったよ」と患者さんから感謝の言葉をかけてもらうようになり、生きていく望みが芽生え始めた。「あん摩・はり・きゅう師になれば、私も少しは人の役に立つかもしれない。目が見えなくても胸を張って生きていける」。この世界ならやっていけると確信できるようになった。
その1~2年後、ひとりの教師に「盲学校の教師になる気はないか」と声をかけられた。最初は戸惑い、「能力的にも無理だと思って、断わりました」と牟田さん。しかし、鍼灸の先生方のお陰でここまでこれた自分、鍼灸の道でやっていこうと生きる希望ももてるようになった自分を振り返り、今度は自分自身がその立場になりたいと思うようになった。かつての自分のような将来を悲観する生徒に、鍼灸を通して生きる希望を与えたいと思うようになったのだ。

 

理療科教師の道へ

教員になる決意をした牟田さんは、3年間の理療科卒業時に国家試験で「あん摩・はり・きゅう」の資格を取得した後、筑波大学理療科教員養成施設に進学。98年から理療科教諭として母校に戻った。今年で勤務6年になる。

牟田さんイメージ写真


教師になってからのいちばんの楽しみは、生徒を国家試験に合格させることだ。
「全国には無免許であん摩・はり・きゅう師をやっている人もいますが、生徒にはこれから人の役に立つ者として堂々と働いてほしいので、それには国家試験が必要だと話して特訓します。独身の頃は2~3週間前から自宅に呼んで、何日も寝させないで勉強をやらせてました」
4年前には、同い年の教え子と結婚もした。2人の息子の父親になった今、この息子たちと関わる時がプライベートでのいちばんの楽しみだという。「私が幼い頃には、多分両親も同じ気持ちで可愛がってくれたのだと思います」。
その一方で、薬物の本当の恐さを若者たちに伝えたいと、新しく始めたのが講演活動である。年に20回程度、授業を終えると佐賀県下の中学校や高校へ出向き、これまでの絶望と苦悩、そして更正の道のりを話し、薬物の恐ろしさを訴える。
薬物は自分自身はもちろん、人をも傷つけ、迷惑をかけ、自分の存在価値をどんどん下げていくこと。大切な友人も、家族も、信用もすべてを奪い、さらには大きな障害をもたらすこと。そして、そうした生き方も希望をもてば変えていける。視力を失っても堂々と生きていけることを。
「昔の仲間にも失明した人、骨髄がやられて止血できない人、シンナー吸引後の暴走で事故死した人など、一生治らない障害を負ったり、死にまで追いやられた人がいっぱいいる。一般の人はこういう事実を聞いてもピンときませんから、実際に失明した私がこういう障害を負うことになると、恥をかきながらやっているのです」

(2004年11月9日インタビュー text:上村悦子)