ふらっと 人権情報ネットワーク

ふらっとNOW



松山猛さん(作家) 僕らの周りには渡れない「イムジン河」がたくさんある

2002/11/29


シリーズ「音楽とともに」(1)

同じ人間同士でありながら、なぜお互いを認め合えないのだろう。なぜ差別が起きるのだろう。どんな言葉よりも心を潤す「音楽」を通して、さまざまな人々の共生を考えます。


「イムジン河水清く、とうとうと流る 水鳥自由に、群がり飛び交うよ・・」
1968年、当時の人気フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)」が歌い、発売寸前で急きょ、発売中止となった伝説の歌「イムジン河」。根強いファンの声に支えられ、今年、復刻版CDが34年ぶりに発売された。この曲がたどってきた道は、日本と朝鮮半島の複雑な関係を反映したものであり、作詞した松山猛氏(55歳)にとって、長年の「消化不良」が癒えないまま歩んできた道でもあった。

僕らの周りには渡れない「イムジン河」がたくさんある 作家 松山猛さん

朝鮮半島の南北軍事境界線近くを流れる川に祖国統一を願い、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で作られた「イムジン河」。その美しい調べを日本で偶然耳にしたのは、「けんかよりサッカーで勝負しようよ」と朝鮮中級学校に乗り込んだ、中学生の松山さんだった。北朝鮮の愛国的な歌曲を、平和を願う日本のフォークソングに生まれ変わらせた張本人である。

僕が子どものころ住んでいた京都・東福寺界隈には、いろんな人たちが暮らしていました。近くには朝鮮から来た人たちの集落があったし、朝鮮動乱で傷ついた連合国軍の兵士のための病院もあって、古い京都の町並みにチマ・チョゴリ姿のおばさんや、アメリカの黒人兵やオーストラリア兵たち、また托鉢の坊さんも行き交うという不思議な風景が広がっていた。でも、それは僕にとっては「当たり前の世界」だったのです。
松山猛さん 小学生の頃は朝鮮系の子とも仲良くなって家に誘われ、テレビを観せてもらいに行ってました。「ニンニクくさいから」と仲間に入らない同級生もいたけど、うちの両親は何も言わなかった。ただ、いつもおやつに出されるキムチが辛すぎて、母に頼んで持たせてもらったのが、おせんべいやカリン糖。子ども心に「なぜ日本に朝鮮の人たちがいるの」と両親に聞いたりする子でした。
中学生になった僕には朝鮮系を含む新しい友だちもでき、彼らが民族差別の悲しさを弁論大会でせつせつと訴えかけているのを聞いて、差別ということを意識しだした頃でもあった。彼らとは、よく将来の夢を語り合ったりしてたけど、学校の外では市立中学生と朝鮮中級学校の生徒とのいがみ合いが絶えず、駅で会えばケンカ、祭りで会えばケンカという時代でした。

どここらか聞こえてきた「あの美しい歌」

日本全体がアメリカと安全保障条約を結ぶかどうかで大騒ぎになっていて、政治家暗殺が起きるなど、主義・主張の違う人は排除しようという動きが強かった時代でね。せめて中学生同士の争いごとをなくしたかった僕は、ケンカよりサッカーの対抗試合をして理解を深め合おうという計画を立てた。担任から「大人が介入するより子ども同士でやったほうがいいよ」と勧められ、僕は、銀閣寺の近くにあった朝鮮中級学校に試合の申し込みに行ったんです。その時、聞こえてきたのが、コーラス部で練習していた「あの美しい歌」でした。
「イムジンガン マルクウン ムルウン フルロフルロ ネリゴ 
ムスドウル チャユロヒ ノムナドゥルミョ ナルゴンマン」

イムジン河と出会った頃の純情な気持ちを綴った「少年Mのイムジン河」
イムジン河と出会った頃の純情な気持ちを綴った「少年Mのイムジン河」
「きれいな歌やな」 と思ったと同時に、どこか物悲しいメロディーに僕は魂を射ぬかれた感じがして、帰りにはその曲を口ずさんでいました。

その頃の僕は、中学のブラスバンド部でトランペットを吹いてましてね。周りに気兼ねなく音が出せる九条大橋で練習をしていて、同じようにサキソフォンの練習に来ていた朝鮮中学のM君と仲良くなり、気になっていた「イムジン河」を教えてもらえることになったんです。数日後、Mくんは譜面と朝鮮語の歌詞と、1番の日本語訳をメモしてきてくれた。意味が分かるようにと新しい「朝日語小辞典」も添えて。ちょうど親しくしていた在日の多くの友だちが、帰国船で北朝鮮に帰っていった時期で、歌詞の意味を聞いて複雑な心境でした。
「南北に引き裂かれた朝鮮半島。水鳥は自由に行き交えるのに、人間は自分たちが作った境界線にとらわれて生きていかなきゃいけない。僕ら人間も自由でありたい」と。