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アイヌとして生まれること アイヌとして生きること

2005/03/18


「アイヌ」を忘れたかのような日々を経て

手違いで学費の高い私立校に入学してしまったのは痛かったが、豊かな環境でのびのびと育ってきた年下の同級生たちと過ごす学校生活はそれまでの苦労を吹き飛ばすほど楽しく、充実していた。遅れた勉強を取り戻すために夢に見るほど勉強する一方で、はしゃぎながら札幌の町を歩いた。村では「アイヌ、アイヌ」と蔑みをこめて呼ばれていたが、同級生たちは礼儀正しく「浦川さん(旧姓)」と呼んだ。静江さんは「自由で平等な」空気をからだいっぱいに吸い込んだ。

刺繍イメージ写真 もう夢見る夢子ちゃんで、怖いものなしですよね。図書館に通ったり同級生に借りたりして、本もいっぱい読みました。ゴーリキーの「どん底」を読んだ時はビックリしましたよ。アイヌの生活そのものだったから「こんなものが名作になるのか」と(笑)。
親のことが心配だったから、できれば札幌で就職したかったのですが、アイヌの子を雇ってくれるところはありませんでした。そこで大学進学のために上京する同級生たちと一緒にわたしも東京へ出ることにしたんです。
アルバイト先の喫茶店がわたしの勉強の場でした。東大、早稲田、慶応、それに留学生。いろんな学生が集まっては文学だ政治だ映画だって延々と議論しているところにコーヒーをもっていくわけです。耳学門ですごく勉強しましたよ。
見るものすべてが身体にスーッと入ってくる感じでした。今いる場所から這い上がろうと爪を立てて、爪の先から血を流してでも這いずっていこうというエネルギーをもっていましたね。アルバイトしながら三部制の高校に通いました。電子顕微鏡で見た「ただの石」がもつ、ダイアモンドどころじゃない美しさに感動して、「もっともっと勉強して地学博士になりたい」と考えるようになったのもこの頃です。

夢と希望にあふれ、生活と学費を安いアルバイト料でまかなう生活も若さで乗り切っていたが、もともと丈夫ではない体には負担が大きく、やがて体調を崩しがちになる。25歳になった静江さんは、客として店にきた男性と交際し、妊娠をきっかけに27歳で結婚した。 相手は東京生まれの和人で、姑となる人は穏やかで優しく、恋愛というよりも「この人たちなら自分や家族を差別することはないだろう」と考えての結婚だった。

「結婚はしない」と思っていたのにね。今思えば、だんだん弱っていったんでしょうね。頼る人もおらず、後ろを振り向くことはできない。かといって前へ進むのも困難、という状況のなかで、ひとりで必死にがんばっていました。なのに失恋はするし、心配する母親からは「いいかげんに結婚しないといき遅れると近所の人も言っている」と手紙がくる。追いつめられるように結婚しました。
結婚を申し込まれたことは何度かあるんですよ。親にお金を出してもらって東京の大学に通っているような、地方の「いいところ」のお坊ちゃんでした。でもアイヌ差別を受けてきた人間がそんな坊ちゃんにプロポーズされても、おいそれとは受けられません。本人に差別する気がなかったとしても、親はどうなのか。田舎でさんざん見てきましたからね。自分だけが差別されるならまだしも、親きょうだいまで出入りできないようなことになれば、わたしはとても耐えられない。だからプロポーズされた時点で、好きという気持ちよりも差別されることへの怖さのほうが強かったです。

 

和人の価値観に疲れ、アイヌとして目覚める

結婚後はふたりの子どもに恵まれ、しばらく平穏な生活が続いた。大学に進みたいという夢ももち続け、家事・育児と仕事の合間を縫って高校に通い続けた。しかし絵や詩を愛し、文学や政治について考えることが好きな静江さんと、男としての面子や沽券にこだわる仕事人間の夫との間にある溝があらわになり、次第に深まっていった。夫との価値観の違いに苦しむ静江さんは、長い間封じ込めていた「アイヌとしての自分」と向き合わざるを得なかった。

宇梶さんイメージ写真

夫は体裁ばっかり考える人でした。夫に限らず、和人は本質よりも体裁や大義名分を大事にしますね。目下の人を人間扱いしなかったり、いいところをなかなか取り上げない。和人の社会のなかで和人の価値観に合わせて生きていくほど、自分が汚れていくという気がしました。かといって、アイヌとして生きているとはとても言えない。街でアイヌだろうと思われる人とすれ違っても、お互いに声をかけることもせず、むしろ目をそらすわけです。
和人の社会での生活に疲れた末に、わたしは故郷から遠く離れて東京にいるアイヌ同士が集まって、支えあったり仲よく先祖供養をする場をつくりたいと考えるようになりました。そして朝日新聞に、その思いを同胞に呼びかける投稿をしたのです。反響は大きかったですよ。だけど多くは市民活動や政治活動をやっている和人でした。逆にアイヌからは「寝た子を起こすな」と怒られました。
それでもわたしを頼ってきたアイヌも少なからぬ人数でした。仕事のない人も多いから、2トントラックを借りて日曜日に廃品回収をやりました。小学5、6年生の子どもから30歳ぐらいまで10人ほど集まって、主に団地を回るんです。「いきなりドアを叩くとビックリされるから、『アイヌです! 新聞回収に来ました』と言うべし」と教えてね。そしたらどんどん出してくれました。ガソリン代や車代をひいて残ったお金を、子どももおとなも平等に折半しました。みんなが喜ぶのがうれしくて、毎週のように回りましたよ。

アイヌでありながらアイヌとして生きてこられなかった自分と同胞(ウタリ)たちのために、静江さんは経済的にも精神的にも負担の多い活動を続けた。しかし無理がたたって静江さんは体を壊し、思春期の子どもたちは常に人が出入りする家庭にとまどい、時には反発した。息子は次第に家に寄りつかなくなった。夫は97年に亡くなった。

3歳ぐらいから14、5歳ぐらいまでのアイヌの子どもたちが、しがみつくように頼ってきましたよ。ご飯の時、子どもたちはお箸でおかずをつまむ前に、わたしの顔を上目遣いで見るんですよ。「この子たちは食べるということから大変な思いをしてきたんだ」と思うとたまらなかった。周りを気にせずに食べるようになるまで、わたしが下を向いて食べました。そういった子どもたちが何人もうちから卒業していきました。
でも、こんなことはアイヌの社会ではごく普通なんです。わたしも、親たちが同胞といたわりあって生活していたのを見ていたからやれたと思う。けれども私が無理したぶん、自分の子どもたちにはしわ寄せがいってしまいました。ただ、わたしに対する信頼は感じていたし、それがあったからこそ強く生きてこられました。