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だけど常にたくさんの介護ヘルパーを確保して、自分のやりたいことを着実に実現している「今の」小島さんを見て、「恵まれている」と思う人は多いんじゃないですか?

 うん、よく言われますね。確かに恵まれてると素直に思うけど、「見えないところで落ち込んだり、また這い上がったりを繰り返してるんだよ」と小さい声で言いたいです。でも自分がそうしたかっただけなんだけど。だってやりたいことをちゃんと表に出さないと、手伝ってくれる人は何をすればいいのかわからないでしょう。私の周りにいつも人がいてくれたのは、たとえば「私はこうしたいんだけど、これができないから手を貸して」ということをちゃんと伝えてこれたということなんだと思う。

 時々、自分を手伝ってくれる人の立場になってみます。すると「今の私の説明じゃわからないだろう」という時があるんですよ。客観的な視点を持って相手と接したり、客観的に自分を見られるかどうかが大事ですよね。そのなかで自分がしたいこと、して欲しいことを常に考えながら伝えていく。言葉だけじゃなくて、仕事や行動でも見せるのを心がけてます。

 一番大切なのは、コミュニケーションをとるのを怠らないこと。たとえば自分でできることでも今日はやって欲しいという時、その理由を説明するのが大切だと思うんです。「今日は時間がないからお願いできるかな」とか。そうすると次に「お願い」と言った時、「何か理由があるんだな」とわかってくれる。これは障害の有無とは関係なく、人とつきあっていくなかで一番大切なエチケットのような気がするんですよ。ただ、私も誰かに教わったわけじゃなく、自分が誰かと一緒にいるという場を自分で作って「さあ、どうする?!」というところから得てきたものだから、「恵まれてますよね」という一言で片付けられるのはすごく残念。「恵まれてるように思うんですけど、実際はどうなんですか?」って言ってくれれば、こんな話もできるんですけどね(笑)。

同じことを言っても、言葉遣いひとつでその後の展開はずいぶん違ってきますよね。

 そうですね。ほんとにちょっとしたことでも、「お茶、入れようか?」と、「お茶、入れてあげようか?」というのは、してもらうことは一緒なんだけど気分的に全然違う。「入れようか?」っていう言葉には、「私も喉が渇いているから、あなたも渇いてるんじゃない? だから一緒にお茶を飲もうよ」という気持ちが感じられて、「うん」って言うにしても断わるにしても、楽に返事ができる。でも「入れてあげようか?」という言葉には「入れてあげてもいいよ」というニュアンスを感じてしまう時もあるんですよね。彼女の顔を見ると、すごく穏やかな顔で悪気はまったく感じられない。だから「あ、この子の言葉ではこうなっちゃうだけなんだな」というのはよくわかったんだけど。

 そんなことがあって、言葉にはとても敏感になりましたね。ほんとにたった一言、なんてことない言葉にいろんなものを感じてしまう。悪気はないとわかっていながらも感じてしまうつらさはありますね。

言葉といえば、本のなかで友達に「直ちゃんの”ありがとう”には心がこもってない」と言われたというくだりがありましたね。

 そうそう。私は心をこめて言ってたつもりなんだけど。私自身いちいち意識してるわけじゃないけど、一日のうちで「ほんとにありがとう」と思うことが何百回もあるはずなんです。それを口に出すと、周りには機械的に聞こえてしまうこともあるのかもしれない。 「心がこもってない」と言われた時、「じゃあ、どんな”ありがとう”だったらいいの?」って聞いてみたんです。そしたら「目を見て”ありがとう”って言って、首を傾げてくれたら伝わる」って。きっとその時、彼女は何か問題を抱えてたんじゃないかな。だから「わかった。あなたにだけはそうするよ」って約束をした(笑)。

 でも私は、やっぱり心から思ってるから「ありがとう」って言うんですよね。たとえばおしっこをしたいのを我慢してたとすると、ヘルパーさんが手伝ってくれることで、我慢や不快感から解放されるわけです。するととっても幸せな気分で「ありがとう」って言う。それは「心からのありがとう」なんですよ。

 ただ、言わされている「ありがとう」も確かにあるんです。

それはどんな「ありがとう」ですか?  

 社会に言わされていると私は考えているんですけど。「ごめんなさい」「お願いします」「ありがとう」と言わなければ、電車にも乗れないんですから。「障害者」と言われる人たちの「障害」には、社会がつくっているバリアによる「移動障害」という部分がたくさんあると思うんです。もっと街を自由に使えれば、「ごめんなさい」っていうエネルギーを使わなくてもすむ。これまではそうしなければ生きていけなかったけど、この先も続けていくのは理不尽に思えて・・・。なんとかどこかで食い止められないかといつも思ってるんですよ。だからただ不満を言うだけじゃなくて、何か問題が起きた時に自分の障害がバリアになっているのか、街が私に障害を与えてしまっているのかということを常に冷静にジャッジするようにしています。よく友達に「まばたきもしないで黙ってると怖いんだけど」って言われて、「ごめんごめん、考えごとしてた」って謝るんですよ。

街を歩く時に限らず、「バリア」を問う視点を常に持つことで見えてくるものはたくさんありそうですね。

・・・・次回は、小島さんの「障害」観や介護ヘルパーさんとの関係づくり、今後の目標などについて聞かせていただきます。

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小島直子さんプロフィール


コモンズ発行
1700円
  • '68年、東京都生まれ。出生時における酸素不足のため脳性小児マヒとなる。移動、更衣、排泄、入浴などに介護 が必要。小学2年生の時、養護学校から普通学校へ転校。
  • '89年、日本福祉大学社会福祉学部社会福祉学科へ入学。 ボランティアによる24時間介護体制の一人暮らしをしな がら養護学校教諭をめざすが、在学中のアメリカ旅行がきっかけで建築に興味をもつ。
  • '93年、同校卒業。実家に戻り、専門学校などで住宅デザインの勉強を始める。
  • '96年、二度目の一人暮らしを始めるとともに、バリア フリーまちづくりハウスの事務局長として、「障害」がある人が暮らしやすい住宅やまちづくりについての調査研究や執筆、講師・講演活動を行っている。
  • '98年、京都造形芸術大学通信教育部芸術学部デザイン 科建築デザインコース入学。


(C) ニューメディア人権機構 info@jinken.ne.jp



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