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「自分のことは自分で決める」。ごく当たり前のことが、人によってはできない場合があります。また、「できない」という状況にもさまざまな形があります。そんな時、周囲にいる人たちはどう対応すればいいのでしょうか。自己決定の意義を説く『弱くある自由へ』の著者、立岩真也さんに伺いました。

立岩真也さん 自己決定は気持ちよく、暮らすための権利 

 

『自己決定』を生かすには仕組みがいる

『自己決定』という言葉がかなり一般的になり、いろんな場面で使われています。ただ、障害があって自分がやりたいことを自分だけではできない人にとっては、現実問題としてなかなか「自分はこうしたいんだ」と強く言えない部分があると思うんです。あるいは「本当はこうしたいんだけど、やってくれる人の手間を考えるといいにくい」と遠慮してしまうとか。そんな人たちにとって『自己決定』という言葉や考え方は、どんな意味があるんでしょうか。

「自分はこうしたい」と意思表示した以上、「自分で決めた」ということには違いないでしょう。ただ、できるとかできないということに対して、どういうふうな価値やルールを社会がつくったうえでの自己決定なのか、ということを見ておく必要があると思うんです。
 たとえば「こうしたいけど、できない」という状況で、「じゃあ決めてください」と言われても意味がないですよね。「自分が決めたことは自分でやってください」というルールのなかで決められるだけだとすれば、仮に決められたといっても自分の力でできない人は実行できないわけで、それは無意味です。自分が決めたように生きるには、「他人が、自分が決めたように動く」という仕組みがいるんですね。
 だから、決めたことを実現するとか、「決める」「できる」ということについてどういう仕組みがこの社会にあるのかということから考えていかないといけないし、不都合があるなら変えていかなければならない。そのうえでどうしたいかを決めてもらうなり何なり・・・ということになるのかなと思います。

 決めたことが実現できる仕組みが必要なんですね。一方で、そういうシステムの話とは別に、家族や友人として、自分で実行できない人の自己実現にどうかかわっていけばいいのかというジレンマもあります。たとえば本人への質問なのに介護している人に聞いてしまうとか、逆に介護者が本人の代弁をしてしまうとか。

立岩真也さん 確かにそういうことはありますね。僕も介護の経験が少しあるのでわかります。ただ、本人に聞かないというのはある種の慣れや習慣みたいなところもあって、逆に別の習慣に切り替えてしまえばそれはそれで自然にやっていけるようになるものだと思います。
「どんな細かいことも本人の指示を仰ぐまでは動くべからず」という考え方もあるけど、実際にはなかなか面倒くさい。頼む側にしても「今日は任せるわ」ということだってあるでしょう。そういう意味では、何から何まで本人が自分のことを細かく決めて指示しなきゃいけないということはないと思うんですよ。それで別に困らなければ「適当にやっといて」ということがあってもいい。

 ただ、そういうことのなかで、自分がしたくないのにさせられてきたという場面がずいぶんあるのも事実なんです。「これでいいよね」と言われて食べたくもないものを食べさせられたり、トイレに行きたくない時に行かなきゃいけなかったり。やっぱり本人にちゃんと聞かないと、周りにいる人の都合が入りがちなんですね。「本人の意思を尊重する」と言いながら、いつの間にやら周りのいいようにされているということは結構あるんですよ。だから原則としてはまず本人に「どうしたいか」を聞く。そのうえで省けるところは省くというのがいいんじゃないでしょうか。

介護する・される関係にもいろいろな形があった方がいい

 それから、当たり前のことだけど障害がある人にもいろんなタイプがいますよね。自分を厳しく律する人もいれば、「もっとマジメにやれよ」と言いたくなるような人もいるわけで(笑)。だから介護する・される関係にもいろいろな形があると思うんですよ。人間関係として突き詰めて考えることがあってもいいし、仕事として割り切るという考えもあるだろうし。僕はどちらもあっていい、むしろどちらもあった方がいいと考えています。
 そしてひとつの関係がしんどくなり過ぎたら、誰かとチェンジできるようなシステムが必要ですね。真面目な人ほど「やり遂げなければ」みたいな責任感にがんじがらめになってしまう。そういうことも時にはあってもいいけど、どこかに「私がいなくてもこの人は生きていける。他にもやってくれる人はいる」という“逃げ場”がないと、ギリギリまでがんばった末に限界を超えて逃げ出すということになってしまいます。その手前ぐらいのしんどさなら続けていけるはずなのに、代わりの人がいないというしんどさに耐えかねて逃げてしまい、さらに代わりの人がいなくなるという悪循環に陥ってしまっている部分があります。
 だから僕はいろんな介護のパターンをどうやってつくるのかということを考えていきたいし、実際に当事者の人たちは考えてきたんじゃないかと思っていろいろ調べたんです。そして見えてきた工夫や技を今回の『弱くある自由へ』や、以前に出した『生の技法』のなかで紹介しました。高齢者介護が大変だという話はいくらでもあるけど、たとえば障害者で介護者を使いながら生きてきた人たちがどういうことを考えて、どういう仕組みを考えてきたかというのはあまり書かれていないんですよね。
 関係がしんどい時にどうやって切り抜けるのか、あるいは介護者との関係を当事者はどうとらえているのか、逆に介護者は何がしんどいのか。現実は現実として押さえておいて、でもそこから受け取れることがあるんじゃないかと思って書いているようなところがあります。

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