
清掃車のアルバイトをしている茂には、生まれつきの聴覚障害がある。ある日、茂は海岸沿いのゴミ集積所に捨てられていた、先が折れたサーフボードになぜか心ひかれて持ち帰ることにする。折れた部分に削った発泡スチロールを継ぎ合わせ、ガムテープを巻いて色を塗る。そうしてできた自分のサーフボードを手に、同じ障害がある恋人の貴子と共に茂は海へ通い始めた。水着姿で失敗を繰り返す茂を、ウェットスーツを着込んだ常連サーファーたちは呆れ顔で笑うが、茂はめげることなくチャレンジし続ける。貴子はそんな茂を砂浜からじっと見守るのだった。
コミュニケーションをとる方法は自分たちで考えればいい |
目の見えない人のために、音が出る信号を考え出す。それは一見とっても優しそうだけど、そんなことよりもまずやらなきゃいけないことがあるでしょ? 信号を渡ろうとしている目の不自由な人がいて、困っているなと思ったら「どちらの方向へ行きたいんですか?」って聞けばいい。そして渡るのを手伝ってあげればいいのよ。その手伝いを「いりません」っていう人もいるだろうし、それならそれでいいのよ。そういうことを教える教育がまず必要なんだと思うの。もちろん、街をバリアフリーにするのはいいことよ。でも今まで私たちの社会は、障害がある人たちを隔離してきたわけじゃない? いろんな面でね。で、「世の中の“つくり”が障害者向けにできてないから外に出さないと」ってことにしてきたの。だけどここにきて高齢者が増えてきたのね。年を取るってことはあなた、どこか「障害者」になるってことよ。耳は遠くなる、目は見えなくなる、腰は曲がる・・・ね? そういう高齢者が増えたから、バリアフリーが必要になった。つまり健常者たちは、自分たちに必要になったからあちこちをバリアフリーにしなきゃならなくなったのであって、「障害がある人のために」っていう気持ちがあってやってるんじゃない。そういう健常者たちの欺瞞を、わたしたちは指摘しなくちゃいけないんじゃないのかしら。わたしはそう思うけど・・・。 そのへんをごまかしてるから、本来なら人間が持ってなきゃいけない思いやりみたいなもの、たとえば駅の階段を下りるお年よりが手荷物をいっぱい持ってたら「お持ちしましょうか?」って声をかけるような気持ちをどんどん忘れちゃう。子どもたちに教育やしつけもしない。ボランティア活動を点数化して内申書に反映したり、カリキュラムのなかにボランティア活動を組み込んだりする動きもあるみたいだけど、こういうことって人に言われてやるものじゃないでしょう。「心」が入っていない制度や設備をつくってもしょうがないじゃない。 一方で、障害をもってるのが特別なことだと思っている障害者がいたら、それはおかしいことでしょ? 個性として考えれば、障害があるということも含めて「その人」なんだから。たとえば同性愛だって、わたしにとってはそれが普通なのよ。仕事だってそう。よく「歩いているとキャーキャー騒がれませんか?」って聞かれるけど、「別に騒がれません。騒がれても気にしません」って答えるの。私の職場がテレビやラジオだっていうだけの話で、ほかの人と特別に違うわけじゃない。たくさんお金をもらえるかっていうと、他の人と比べればわたしは四六時中働いてるからお金もそれなりに入ってはきますけど、サラリーマンみたいに保証されてるわけじゃないですから。自分で選んだものをやってるという意味では変わりはないのよ。 |