ふらっとNOW

高齢者

一覧ページへ

2003/08/22
「見守りの介護」がピンチをチャンスに変えてくれた


「見守りの介護」がチャンスをもたらした

谷口政春さん 1年後、ヘルパーさんが交代することになり、妻の病気が悪化するのではと心配したのですが、次のヘルパーBさんは大の演歌好き。妻は唱歌に加え、演歌も次々と覚え歌い始めたのです。発病前には夫婦で演歌を楽しむことなどなく、妻は謡をやっていた程度です。それが「北の宿から」「星影のワルツ」「北国の春」「時の流れに身をまかせ」・・・と歌い始めたのですから、私は自分の耳を疑うとともに感動しました。
演歌を覚えるということは、新しい記憶ができていること。介護観が一変しました。残された脳の働きに「楽しみ」を与えれば、ぼけても新しい記憶ができることが分かりました。
人には残存機能があって、まだ侵されていない80%以上の機能は健在で、いい刺激があればどんどん活動を始めていく。それを証明したいと、習字、俳画、謡、刺し子など、新たな挑戦を始めました。特に洋裁好きの妻は刺し子には夢中になり、ふきん、のれん、座ぶとんカバーなど、作品をどんどん完成させていきました。演歌にもさらに挑戦して、近所の方にカラオケ教室に連れて行ってもらったこともありました。ピンチが最初のチャンスをもたらせてくれた。夢のような数年間でした。

「天使」のようなヘルパーとの出会いから、「介護のイロハ」を学んだという谷口さん。それはできないことを教えるよりも、できることを一緒にして喜びを見つけ、自発性を引き出す介護だった。ヘルパーの本来の仕事は「家事援助」と「身体介助」。だが、谷口さんはヘルパーから「見守りの介護」の素晴らしさを教えられた。いいヘルパーに出会えれば、今のグループホームやデイケアで行われていることが、在宅介護でも可能だと確信できた。

介護の先輩に知恵を借り、支えられ

「1日できることだけをしよう」という思いから行動の時間を細かく記録する谷口さん
「1日できることだけをしよう」という思いから行動の時間を細かく記録する谷口さん

ところが、病状は確実に進行します。痴呆症も中期にさしかかり、中長期の記憶を奪われ、妻は別人のようになっていきました。ヘルパーさんや近所の人ばかりか、子どもたちや夫である私まで分からなくなってしまった。長年共に暮らしてした私が配偶者でなくなったのです。自分の家も、トイレも分からなくなり、買物や炊事の分担も妻から私へ。トイレが分からず、部屋のあちこちで放便放尿するようにもなりました。
トイレ誘導、入浴介助に加え、寂しくなると徘徊も日常的に。1996年で29回、1997年で125回の徘徊数です。私の介護負担は一挙に増えて、ストレスは増す一方。私は「呆け老人をかかえる家族の会」に助けを求めました。
家族の会は介護経験の豊かな人たちばかり。1995年に入会し、介護相談にのってもらったり、講演に参加して「脳活性化」などいろいろなことも学びました。妻同伴でリフレッシュ旅行にも参加し、ゆっくりと食事やお風呂も楽しみました。ヘルパーさんを頼めても介護の大部分を担うのは私です。会は私の介護の質を高め、心の支えになってくれました。

しかし、同時に困ったのが炊事です。私が作る料理がまずくて、妻が食べようとしない。頑張れば頑張るほどまずくなって、妻の45キロあった体重が37キロに減ってしまいました。そこでまた周りに助けを求めました。それがきっかっけで、元栄養士さんがいろんな人を誘ってわが家で「君子さんの料理教室」を開いてくれることになった。ちょうど2年続きました。最初に私が覚えた料理が「ちらし寿司」。妻は喜んで食べてくれてるようになり、毎週ちらし寿司が続いたことも(笑)。それからは料理もいろいろ覚えて、得意料理はから揚げ。2度揚げすれば、ジューシーで柔らかですよ。今はグラタン、白和え、サラダと、何でもできるようになりました。ヨーグルトも手作りです。やはり、男でも在宅介護なら料理も含めて介護能力を高めなければダメ。地域社会は病人だけではなく、介護する人も支えることが大切だと痛感しました。

関連キーワード:

一覧ページへ