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僕は水平社宣言の執筆者、西光万吉さんと逢ったんだ 永六輔さん1

2001/02/02


ほんの少しアンテナを張れば、誰もの身の周りにある部落問題。作詞家、随筆家、放送タレント、芸能問題研究家などさまざまな顔を持つ永六輔さんにご登場いただく1回目は、ご自身の体験と西光万吉さんとの交流について語っていただきます。

僕が生まれ育った浅草は、江戸時代に今でいうホームレスらが集まってきた下町。生家は弾左衛門(だんざえもん)の縄張りのお寺でした。いわゆる被差別部落も近くにある環境でしたが、僕が直接に部落問題と出会ったのは、国民学校四年生で信州・小諸に疎開した時。
僕たち疎開児童もいじめられたけど、同じ集落の中に部落の地域があり、そこにはあからさまな差別があったのね。その地域だけ電気がついていなくてランプで生活していたし、学校での子どもたちの扱いにも差があった。僕は「なぜ?」と思ったけど、親と離れて暮らす自分も辛いものだから、他人に思いを寄せることはまだ出来なかった。でも、中学に入る前にその小諸が舞台の『破戒』(島崎藤村)を読んで、なんと理不尽なと思った覚えは確かにありますね。 だって、人間が、同じ人間を区別し差別するのは、とてもおかしなことじゃないですか。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と素晴らしい言葉が綴られた水平社宣言を読んで、その一字一句に感動を覚えたのは、もう少し長じてからのことです。

水平社宣言の草稿を書かれた西光万吉(さいこうまんきち)さんの和歌山のお宅に、僕はそうとは知らずに何度も伺ったことがあるんです。
1968年、朝日新聞に明治以降の芸能百年史についての連載をしていた時、東京で旗揚げして失敗した沢田正二郎新国劇が、なぜ大阪で成功したのか知りたくて。担当記者の方に、その辺のことは和歌山の西光さんという方が詳しいと聞いたから、お訪ねしたんです。いつもバス停まで迎えに来てくださるその方は、身振り手振りを交えて情熱的に教えてくださる、親切なおじいさんだった。
同じ頃コンサートで京都に行った時、現在の京都会館の敷地で、偶然、全国水平社創立記念の石碑を見たんです。そこに、西光万吉の名前が書かれていた。僕が通 っている人と同じだなあ、もしやと思って、次に西光さんのところに行った時、「ひょっとしてあなたは、水平社宣言をお書きになった先生ですか」と聞いたんです。すると、とても困惑した顔をされた。それが忘れられません。

その時に出てきたのが、自分は芝居の本を書いているという話。
「この本が芝居にならないだろうか」
と、『戯曲 澤村辰之助』の原稿をお出しになられたんです。

幕末から明治にかけて一世を風靡した、女形歌舞伎役者・3代目澤村田之助(さわむらたのすけ)がモデルで、脱疽症になり、両足、両手を失っても舞台に上がり続けたというストーリー。右足を切り落とした時『七夕心中』のきれいな芸妓役、左足をなくした時『紅蓮』の火定に入る尼さん役をし、両足と右手がなくなってからは、羅生門で武士に切り取られた腕を取り戻しに来る時に化けた老婆役、そして両手両足がなくなり達磨になった最後は、芸道精進の美しい蛇になって清姫をつとめたという粗筋でした。手足のない体に人形の手足をつけて踊る姿は、芸への執念そのもので、見る人はその壮絶さに思わず目を伏せた、と。西光さんは、手足を切断したように見えるような演技はこうすればいいと、演出プランまで考えてらして、僕はその打ち込み方にも感動しました。
さっそく、演劇関係者らに上演できないかとかけあったりしたんですが、「人権問題」の枠で考えると障害を見世物のようにすることはいけないと、残念ながら舞台化は実現しなかった。幸い、その後出版されましたが。