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2008/08/15
見なされることへの不安が部落差別を生み出す


恐いのは「世間」のまなざし

部落差別を「いけないこと」「自分はそんな差別はしない」と思っている人が、いざ部落と関わりが生まれそうになると激しい拒否反応を示す。差別事件として表に出なくとも、こうしたことは日常生活のなかにいくらでもあります。
差別は、差別する人とされる人の関係において起こっているように見えます。しかし〈見なされる〉という視点で考えると、部落出身者と〈見なされる〉ことに恐れを抱く人と「世間」との関係のなかで部落差別が起こっていることがわかります。見なして差別するのは「世間」であり、差別する人は「世間」のまなざしを恐れているからです。実際にあったケースをいくつかご紹介しましょう。

ケース1
ある男性が、若者向けの鞄屋に勤めることになり、通勤に便利なワンルームマンションに引っ越した。すると叔母から「マンションのある地域は部落だ。鞄屋さんに勤めて部落に住むと、部落民だと思われるからやめたほうがいい」と言われた。「それは差別じゃないか」と反論すると、「部落は怖い。何かあると集団で押しかけてくるような人たちだから、関わらないほうがいい」と言う。「そういう経験をしたのか」と問い返すと、「経験したことはないが、知り合いから聞いた」と答えた。

「部落の人は何かあると集団で押しかけてくる」といった話は広く伝わっています。このケースでもそうだったように、実際に経験したわけでもないのにまことしやかに伝えられます。まさに「偏見」です。しかし私は、こうした話を信じている人はほとんどいないと見ています。本心では信じていないけれど、〈見なされる〉ことを避けようとする時の「根拠」として都合よく使うのです。
差別とは、極悪非道な人が悪意たっぷりにおこなうものだけではありません。「私は差別しない」と言いながら「でもこういう話もあるよ」と偏見を持ち出す人や、「差別されるのが嫌だから、差別されている人たちと関わりたくない」という人たちが差別を支えているのではないでしょうか。

「もったいないほどいい人」でも、関わりを拒む

ケース2
職場で知り合った男性からプロポーズされた女性が、部落に住んでいることを理由に男性の両親や親戚から結婚を反対される。男性は説得を試みるが、「本人同士はいいが、妹の結婚やいとこたちの就職に差し支える」と強硬な反対が続き、変心する。糾弾会で、男性は「長男で男一人、結婚はみんなから祝福されてやりたかったので、両親や叔母の“説得”に負けてしまった」と述べた。父親は「反省文」のなかで「結婚は部落の子や朝鮮の子はあかんと軽い気持ちで言いました」と書いた。強硬に反対した理由については「とにかく妹の結婚に差し支えると思ったので」と繰り返し、母親は子どもの頃から周囲に植え付けられた偏見をそのまま持ち続けてきたことを明らかにした。

どんな差別も「差別してもいい理由」などありませんが、差別がおこなわれる時にはもっともらしい理屈が使われます。たとえば障害のある人や在日の人と結婚をする時、家族に反対されることがあります。その時、「生活はきれいごとじゃない。苦労するよ」などと、「あなたのためにならないからやめたほうがいい」という言い方で反対されます。
しかし、部落差別のために結婚を反対される場合は違います。「あなたは好きな人と一緒になれて幸せかもしれないけど、きょうだいや親戚の結婚話に差し障る」「自分さえよければいいのか」と、まるで自分のことしか考えていないような言い方で責められることが多いのです。
男性の両親は、部落出身の女性に「あなた自身はうちの息子にもったいないほどいい人なのに、ごめんね」と謝りながら、「部落の人との結婚は認めない」と徹底的に差別しました。

避けるという行為は差別である

ケース3
高校教員の男性が、土地を購入し、自宅を新築した。転居後、町内会に部落が含まれていることを知り、自宅のある一区域を隣の町内会に移すことを希望。区域内の居住者に了解を求めたり、町内会長と交渉したりした。そんななか、強い説得にしぶしぶ了解した人に対し、「将来、いいことがあるかもしれませんね」と発言。「それはどういうことですか」との問いに対して「お嬢さんの将来にいいかもしれませんね」とさらに発言した。確認に対し、発言が部落差別を意味するという趣旨であったことを認めた。

このケースは民事裁判となりましたが、被告となった男性は裁判で部落差別を認めたことを撤回しました。そのうえで、「差別を受けることを避けようとする行為は差別とはいえない。憲法で保障されている個人の尊厳や幸福追求権の一つである」と主張したのです。
結果的に、被告の主張は判決によって退けられました。判決文は、以下のように断じています。

部落と自己を分離しようとする行為は、差別の存在を前提とし、これが今後も継続されることを容認し助長するというだけでなく、端的に部落を隔離して差別する行為だといわれてもやむを得ないだろう。(略)このような行為を行うことが個人の尊厳と幸福追求権の一つとして憲法で保障されているとは解されないし、ましてや、これに対する批判や追及が許されず、そのような批判や追及が、当然に、違法とされたり、公共の利害や公益目的にかかわるものと認めるべきではないと解することはできない。

部落出身者であると〈見なされる〉ことを避ける行為は、部落を隔離して差別する行為にほかならないと司法が認めているのです。このことの意味は非常に大きいし、広く伝えていくべきだと考えます。

3つのケースのいずれも、部落との関わりが生まれなければ出てこなかった言動でしょう。差別を指摘されても、「自分は差別する気はない」「自分はいいが、子どもや親戚の結婚・就職に差し障る」と言い張ります。しかし「自分はかまわない、差別する気はない」と言いながら、部落出身者と関わりをもつことで自分(たち)も部落出身者だと〈見なされる〉ことをどうにか避けようとする意識が強く表れています。
それではこうした差別をなくすために何が必要なのでしょうか。

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