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2006/04/07
どんな子どもも「生きる力」をもっている


「子どもの力を信じて寄り添う」という支援

―――精神的な傷からの回復は大変ですね。

わたしだけではサポートしきれません。彼らは自尊心を奪われ、自分自身をも信じられなくなってしまうまでに追い込まれています。「わたしなんか生まれてこなければよかった」「自分の血を入れ替えたい」と思っている、いわば“生きる力”を奪われた子が自分を取り戻す作業をするわけですから。「あなたが生まれてきたのは、とても素晴らしいことなんだよ」というメッセージを、できるだけたくさんの人が贈る必要があります。そういう意味でも性教育がとても大事ですね。芦原病院女性科の看護師や助産師に、体や性の知識と同時に命の誕生やつながりについて話してもらっています。

わたし自身は、基本的に何もできないと思ってるんですよ。信じて見守る、そばにいるということしかできない。苦しみを代わってやることはできないし、彼女たちがすべてを話してくれるわけでもありません。でも「今、一緒にいる限り、あなたの言葉を信じて、自分を取り戻す作業につきあうよ」「あなたはあなたでいい。いるだけでいいんだよ」という気持ちをもって接しています。

―――今、「子どもに“生きる力”を」と盛んにいわれています。荘保さんも講演などで「子どもは生来、すばらしい生きる力をもっています」と言われていますね。「生きる力」ってどんな力でしょうか。

荘保さんの写真 わたしが思う「生きる力」とは、特別なものではありません。たとえば親から離れたこどもが「こどもの里」で暮らしている。おかあちゃんのことを口にせず、気を遣いながら・・・。あるいは家族が一緒に住めるように一生懸命がんばっている子や、病気のおとうちゃんのおしめを替える子。わたしはそれだけで素晴らしいと思っています。それから、子どもたちは人の顔色を見ながら動きますね。誰が甘やかしてくれて、誰が厳しいか、よく知ってますし。厳しい人の前に行くとコロッと態度を変えるとか(笑)。これも「生きる力」でしょう。つまり、人は生まれながらにして背負っている問題、煩わされる問題を解決しようとする力や、自分で自分をほめたり励ましたりする力をもっているんです。

子どもに限らず、誰もが一日一日を生きていくなかで、いろんな力を発揮しているわけです。自分の存在を確かめているかのように。それをあえて「生きる力」と表現しているだけで、特別なものではありません。だからこそ、見ようとしなければ見えない。特におとなが子どもを見る時、「見方」によって見えるものがまったく違うでしょうね。

―――生きているということは、すでに「生きる力」をもっているということですね。その素晴らしさを見る眼をもっているかどうか。

「子どもはおとなが指示したり教育したりすることによって初めて力をつけられる存在である」と見るのか、「本来、いろんな力をもっている存在である」と見るのかでまったく違ってくると思います。だから子どもたちは自分にとって誰が一番プラスになるかを見て、選んでいきます。重要なのは「誰を選ぶか」ですよね。選ぶ範囲が広がるように、できるだけたくさんの人と出会ってほしいと思います。

わたしは、釜ヶ崎の子どもたちと出会うことによって価値観も生き方も変えさせられました。わたしは自分に自信がもてず、人と比較されることに怯えながら育ちました。そんなわたしが生きるために身につけた何枚もの“鎧”や偏見を子どもたちが1枚ずつはがしてくれました。そして「わたしはわたしのままでいいんだ」「自分自身を大切に生きよう」と思えるようになったんです。

「わたし」を愛しく思え、「わたしの命」を大切にする力は、「他者の命」を愛しみ大切にする力になります。家族が一緒に住めるようにがんばっている子、病気のおとうちゃんのおしめを替える子の「生きる力」です。成長段階に虐待などの外からの圧力で自尊心を奪われ、傷つけられてしまった子どもたちも、出会いによって自尊心を取り戻せると思います。それは先に言いましたように、人は生まれながらにして問題解決しようとする力や、自分を励ましたりする力をもっているからです。人はいろんな力を内在させているから、その力を発揮して生きていく。変わっていくんです。

一方で、感情の部分で変われないところもある。わたしの場合は短気とか(笑)。でもこれも「感じる力」であり、わたしの個性だと思っていますが・・・、それもひっくるめて「わたし」なんですね。子どもたちも同じ。成長や人との出会いとともに変わっていく部分、変わらない部分がある。「全部ひっくるめて“この子”なんだ」とわかれば、子どもの「生きる力」が見えてくると思います。

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