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2010/06/22
被害者の人権を考える 『置き去りにされる被害者たち』 (シリーズ1回目)

殺されるために更正させたんやない

わが家は加古郡稲美町にある農家で、聡至の祖父、私たち両親、弟2人の6人家族。聡至は、事件があった年の4月から自宅より20キロほど離れた県立高校に入学し、寮生活を始めたところでした。

事件現場となった住吉神社は高松さん宅のすぐ裏手にある。
事件現場となった住吉神社は高松さん宅のすぐ裏手にある

聡至は3人兄弟の長男として農業を手伝い、近くのキャベツ畑や事件現場となった神社を幼い頃からの遊び場として育ちました。ところが、中学1年の3学期頃から、加害者の一部となった暴走族の少年らとつきあうようになり、服装も行動もどんどん変わっていったのです。それはもう手がつけられない程の速さで、中2からは学校に行かなくなり、バイクの無免許運転などで学校や警察からよく呼び出されるようになりました。

でも、私たち夫婦は塾と部活だけには行くように説得し、何か問題を起こすごとに叱ってきました。家をあけると2人で夜中まで捜し回り、行きそうな場所を突き止めては、そのたびに迎えにも行きました。雰囲気の違う場所で話せば通じ合えるかもしれないと外食をしたり、海に連れ出したり。また、世間体も気にせず、児童相談所へも通いました。家族でボウリングやスキーに行くなど居心地のいい家庭づくりに努め、何をやっても徹底してあの子から目を離さなかったのです。

そうした私たちの気持ちが通じたのか、中3になって「高校にちゃんと行きたい」と言い出して勉強も始め、その年のクリスマスを境にグループとも縁を切ってくれました。それも農業を継ぎたい、また、グループとも別れる意味もあって、少し遠い農業高校を選び、寮生活を始めたばかりだったのです。新しい友だちもでき、部活も弓道部に入ってイキイキしたあの子を見て、「悩み、真剣にぶつかり合ってきた時期があってこそ」と喜んでいた矢先のことでした。私たちは殺されるために必死で更正させたんじゃありません。

まったくなかった被害者への配慮

事件後の生活は大変でした。世間は本当に冷たい。私たちは被害者なのに、周囲の無責任なうわさに悩まされ、あらぬ中傷もありました。息子の死を受け止めなければいけないうえに、加害者のように国選弁護人がつくわけではなく、私たちの気持ちを本当に理解してもらえる弁護士を自分で探すしかなく、毎日の生活もしていかなきゃいけなかった。
当初は買物に行っても、知り合いの人でさえ挨拶もしてくれない。周囲の目が気になって、カレーの材料も思い出せないんです。とりあえず買って帰ったら、お菓子ばっかりだったということもありました。

メディアの報道にも傷つけられました。加害者は少年法に守られて顔も名前も出ませんが、殺された息子は名前ばかりか写真まで、親の許可もなく直後に報道されたのです。同じ少年でありながら、被害者への配慮がまったくないのには驚きました。

今も事件当日のまま残されている聡至くんの部屋
今も事件当日のまま残されている聡至くんの部屋

しかも、警察まで、こちらに非があるような対応でした。大切な息子を殺され、その死を受け止めるためには、事実を知ることでしかその準備も始められない。少年事件の遺族でつくる「少年犯罪被害当事者の会」に入れてもらい、被害者同士で語り合えたことは何よりの救いでした。そこで初めて遺族給付金のことも、それが無実の証明になることも知ったのです。その後は、被害者支援の充実や被害者への情報公開を訴えてきました。そして、2年前からは「全国犯罪被害者の会・あすの会」に入って、被害者支援のため各地の集会に参加するようになりました。夫婦2人だけでは、ここまで立ち直れなかったと思います。

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