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多民族共生

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2002/06/27
鄭禧淳さん(京都コリアンセンター理事長) 在日コリアンに穏やかな晩年を


辛い過去が、在日高齢者の心を閉ざすことに

チマ姿で踊る女性をイメージしてハングル書体で書かれた「エルファ」。在日書家金さんの書

その頃、鄭さんの心を動かす出来事が立て続けに起きた。 
「ある男性が、日本語が分からないために介護保険の仕組みを理解できず、在宅サービスで印鑑によるトラブルを起こしたというのです。よく聞くと、ハンコひとつで日本に連行され、親もハンコを押したために土地を奪われたという植民地時代の辛い過去を持つ彼は、押印の恐怖心から、配食の受け取りのためにハンコを押すことができなかったのです」
デイサービスで折り紙をしている最中にパニック症状を起こした84歳のアルツハイマーの女性もいた。幼い頃から手に馴染み、日本の高齢者にとってはできて当たり前の折り紙も、在日一世の女性にとっては異文化のもの。周りのお年寄りが簡単にできることができずに焦っていたところに、職員が親切で声をかけたのがアダとなって、みんなの視線が女性に集中したのが原因だった。来日したばかりの頃、言葉がまったく通じない中で、卵1つでさえ鶏が卵を産む姿を真似して買わなければいけなかった当時の、周囲の「あざ笑いの目」を思い出したというのである。
「これは人権問題ではないか。歴史が残した高いバリアを少しでもなくすためには、日本の行政では受け入れられない人たちの受け皿をつくらなきゃいけない。これは在日二世である我々の使命だと改めて感じたのです」
鄭さんが行き着いたのが「故郷の心の介護」の必要性だった。

父の教えと一世たちへの感謝が使命感となって

鄭さんは、8人きょうだいの7番目。漢方薬や漢文を勉強した父は教育熱心な人だったが、亡国の民がゆえに働いても働いても長姉2人は小学校にも行かせられなかった。それ以来、「親のお陰で学校へ行けたと思ったらダメだ。国を奪われたら教育なんてできない。祖国が解放されたから、おまえは大学で学べた」が父の口癖となった。鄭さんが朝鮮大学を卒業した時も、親元からの通勤が当たり前の時代に「勉強ができず、自分の名前さえ書けない人が山ほどいる。教育を受けた者は、その人たちに献身すべきだ」と諭し、兵庫県の在日本朝鮮民主女性同盟での識字活動を勧めた。以来、鄭さんはそこで読み書きや歌を教え、生活相談に乗る仕事を36年間続けてきた。結婚して京都に移り住んでからも、3人の子ども連れて通い、生徒である在日一世たちが子守りをして支えてくれた。
「いかに生きるかをいつも教えてくれた父。人生の羅針盤的な役割をしてくれました」

センター2階に並ぶハルモニたちの作品

だが、母、続いて父を亡くしたのが、2歳、4歳、5歳の幼子をかかえていた時期。存分に介護できなかったことが大きな心残りとなった。それに、子育てを心から支えてくれた一世たちへの感謝の気持ちが重なって、「エルファ」開設まで、鄭さんを無我夢中で歩ませてきたのである。
「まず、資金がないので場所は買えない。NPOで立ち上げてボランティアと結合し、介護サービスの給付金を柱に運営していこうと考えました。厚生省が定めたカリキュラム以外に、在日コリアンのルーツと現状なども講座を入れ、朝鮮語の話せる2級ヘルパーを、これまでで56人育成。ボランティアも報酬はなくても、交通費、通信費、食費ぐらいは保障しなければならないと有償ボランティアに。関係者に頼るのではなく、日本の市民と地域で手を組みながら、自力でやっていきたいと使命感だけでここまで来ました」

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