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多民族共生

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2004/07/23
移住連 共住懇の取り組み 外国人と「共に生きる」社会をめざして




矢野さんは、「マスコミ報道も外国人に対する偏見を生み出していると思います」と話す。「昨年夏ぐらいから、治安悪化の原因のひとつとして、外国人犯罪急増を挙げるテレビや雑誌、新聞記事が増えています。けれど私たちがデータ検証した限りでは、急増しているとは断定できません。警察発表を検証もせずに書き、ショッキングなタイトルで注目を集めるという報道のあり方に疑問を感じます」。中国人留学生による事件がセンセーショナルに報道されたことにより、現在は中国人留学生に対する風当たりが特にきつい。日本語学校では中国人留学生に限ってほとんどビザが出ない状況だという。
日本で暮らす外国人の実情と、マスコミも含めて社会全体の認識との間には大きなギャップがあると矢野さんは指摘する。「外国人問題に限らず、全体的に社会問題に無関心な人が多いのも気になります。日本社会の問題なのに、自分たちの問題とはとらえない。そして、「入管法違反」というネガティブなイメージだけが先行し、排除の意識に向かう。たぶん、会社の同僚や友人として個人的な人間関係があると、オーバーステイだからと攻撃することはないと思うんです。それが“外国人”とひとくくりの集団として見ると、“法律に違反してるくせに文句を言うな”とか“嫌なら帰れ”となってしまう。法律に違反しているのは事実ですが、そのことによってすべてが否定されていいわけではないですよね」

矢野さんの写真 そもそもオーバーステイになってしまうのは、前述したように入管法が実情と合っていないことが大きい。そのため、多くの人が就労を目的としながら3ヶ月しか効力のない観光ビザで入国してくる。ではなぜ彼らが日本へ働きに来なければならなかったのか。それを知ってほしいと矢野さんは言う。
「国の状況によっては、出稼ぎしたいかどうかは別にして、せざるを得ない。出稼ぎを奨励している国もあるし、人生のなかのひとつのチョイスとして海外への出稼ぎがあるんですね。さらには「3Kの仕事を安い賃金で担ってくれる存在」として日本側も必要としているのです。そういった背景があって、日本国内で外国人労働者が低賃金で中小零細企業で働いているし、同時に彼らの母国で安いコストで生産なり輸入なりをして物をもってきている。今の日本の便利で恵まれた生活は、こうしたことで成り立っているんです」
そんな実情を法務省が知らないはずがない。にも関わらず、法務省入国管理局は04年 2月16日より、「不法滞在等の外国人」に関する情報をメール通報できる制度を開設し た。「違反者」「不審者」と「思われる」外国籍市民を通報することを奨励し、通報者は匿名でも構わない。移住連では「この制度は政府による差別行為であり、人種差別撤廃条約にも違反する」として中止を求めている。
「日本という国は日本人のもの。嫌なら自分の国へ帰れ」。そう言い切るのは、現実をあまりに知らない証と言えるのかもしれない。

「人種のるつぼ・大久保」のまちづくり

それでは、日本に住む移住労働者やその家族と「共生」していくにはどうすればいいのだろうか。外国人が多く住むまちとして知られる東京都新宿区の大久保一帯を訪ねた。
JR山手線新大久保駅からJR中央線大久保駅に向かって大久保通りを歩くと、日本語に中国語やハングル、英語が併記された看板が目につく。アジア系の料理のメニューを貼り出したレストランや中国・韓国の食材を扱う店に混じって、電器屋や家具屋、八百屋といった小さな商店も軒を連ね、昔はどこにでもあるごく普通の商店街だったことがうかがえる。狭い歩道をひっきりなしに大勢の人が行き来し、横道に入ると細い路地がうねうねと続き、アパートや小さなビジネスホテルが立ち並ぶ。雑駁としているが、どこか懐かしさも感じる町並みである。
不動産看板の写真 多文化共生のまちづくり活動に関わっている「共住懇 外国人とともに住むまちづくりを考える」の代表、山本重幸さんによると、大久保は明治期(1900年頃)から外国人が住むまちだった。終戦直後から1950年代には、現在はオールドカマ―と呼ばれる在日コリアンたちが集まり、1980年代後半からは東南アジアや東アジアから職を求める外国人や、林立したラブホテルを利用する外国人売春婦が集まった。
必然的に「外国人が住みやすいまち」となり、都心の職場や留学先の学校に近い、家賃の安いアパートが多く残っている、すでに外国人のコミュニティができているため情報などを得やすいなど、ニューカマーの外国人にとってメリットの多いまちとなっていたのである。
「1990年頃がピークと言われているんですが、その頃からさまざまな問題が出てきました」と山本さんは言う。当時、地域に住む日本人たちの間には、入れ替わりが激しく言葉もわからないためにコミュニケーションが成立しない、つまり生活実態が見えない外国人たちに対する不安が広がった。一方、外国人の側も部屋が借りられない、必要な情報が得られないなどの生活上の困難を抱えていた。双方が「自分たちの立場が脅かされている」と感じていたのである。
頻発する摩擦や福祉、ゴミ問題に頭を痛めた新宿区は1991年11月に、住民ともに「外国人問題」を考えるためにコミュニティ講座を開いた。「このままではいけない」「住みやすいまちにしたい」と願う人たちが集まり、共住懇が誕生した。

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