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2000/12/06
私を立ち上がらせたもの


「どうぞ偽名を使ってください」

「不治の病」「恐ろしい伝染病」という過ったイメージと、そのイメージを国が率先して肯定した終生隔離政策。ハンセン病患者と家族は、偏見や差別によって不当におとしめられ、生きる権利を奪われてきた。長い間、患者には治療を受ける権利すらなかった。「生き残った」中山さんの記憶は、何十年という時が過ぎた今も生々しい。
「阪大病院に通院していた頃は、偽名を使ってた。療養所へ入れられるのはかなわんと思ってたからや。せやけどある時、ふと正直に住所を言ったら警察に知られてしまった。当時この病気は警察の管轄やったんや。警察から療養所へ入所するようにという通知が来て、窓を締め切って幕を下ろした特別列車で大阪を出た。車中で、”療養所ではどうぞ偽名を使ってください。入所した人はみんな名前を変えるのだから”と担当官に言われた。そこで私は開き直ってね、”悪いことして逮捕されたんと違うやろ。療養所でなんで偽名を使わなあかんねん”と答えた。それからずっと私は本名を通してる」


中山さんの故郷は静岡。2000年夏、同じ静岡出身である邑久光明園勤務の看護婦夫妻とその両親のご好意で、中山さんは「里帰り」を果たした
「島は、無菌地帯と有菌地帯に分けられていた。有菌地帯とは、患者がいるところ。周囲を10cmぐらいの杭でぐるりと囲って、”これから先、行くことなりません”という看板が立てられてた。白衣を来た巡視が見回っててな、島にいながら海岸に下りることもできなかった」

「看護婦が手袋やらマスクやら、ごっつい重装備でやっとったから、だんだん自分の状況が深刻に思えてきた。ところがそれに慣れると、今度は外が怖くなる。療養所から出ると、場違いなものを感じるんや。そういうなかで、60年生きてきた。慣れることの恐ろしさ、慣らされた自分への自己嫌悪を感じるね」

「”第二のふるさと”という言葉があるよね、私は使ったことないが。入所者にとって、療養所を第二のふるさとににする仕掛けが十分できとるんやね。お寺まであるし。しかし、ここを第二のふるさとにされたらいかん。思ってもいかん」

中山さんには、姉がいる。しかし「私がハンセン病ということは知ってるが、予防法も知らん、廃止も知ん、私が国賠訴訟の原告になってることも知らんで」と中山さん。「何も知らん。家族すら知らんところで、こんな過酷なことをやったんや」と。そして多くの人が真実を知らないまま、悪法は闇に葬られ、年老いた入所者たちはひとり、またひとりと亡くなってゆく。

「私は生き残ってそれなりの生活をしとるから、これでよしとしなければ。欲しいのは銭金じゃない。国がやった犯罪行為を明らかにして、はっきり謝ってもらいたいんや。間違ったことをやったんだと、国に思い知らせてやりたい。生き残った者の仕事はそれだけやと思ってる」

「隔離」は今も・・・


通称、「宗教地帯」。入園者の拠りどころとなっている 様々な宗教(浄土真宗、真言宗、天理教など)の建物が並ぶ。(岡山・邑久光明園)
小春日和の園内を歩くと、常に同じメロディーが流れているのに気づく。平板で無味乾燥な電子音が奏でる「スウィートメモリーズ」。曲名が何とも皮肉だ。売店や集会所、曲がり角などにスピーカーが取り付けられ、エンドレスで流されている。ハンセン病の後遺症によって視力を失った人たちの、いわば道標なのだという。
お寺など宗教施設が整然と隣り合せて建っている、さながら「宗教の見本市」のような通りを抜けると、突き当たりには約三千人もの人が眠る納骨堂がある。
園内はどこも清潔で、手入れが行き届いているのはよくわかるが、雑多な生活感がまったく感じられない。 「今の生活はいい」と中山さんは言った。しかし、子どもが騒ぐ声や犬や猫の鳴き声、人が行きかう足音も車やバイクの騒音もない。静かで安全ではあるけれど、社会のなかで生きているという実感からは程遠い環境であることも間違いない。「外の世界を怖いと感じるようになった」という中山さんの言葉が胸に迫る。

瀬戸内の温暖な気候、穏やかな海。島の近くには別荘が建ち並ぶ。小高い場所にある療養所から見渡す景色には、風光明媚という言葉が似合う。しかし、それはあくまで第三者の視点だ。多くの患者が不意打ちの強制収容によって、別れの言葉も満足に交わせないまま家族と生き別れとなった。橋のない島に送りこまれ、火葬場や納骨堂を目にした時。隔離されてもなお、家族に迷惑がかかるからと名前を変えた時。子どもをもつことを許されず、強制的に中絶、あるいは断種手術を受けさせられた時。目の前の穏やかな海は、決死の覚悟で脱出しない限り触れられない海は、患者たちの目にどう映ったのだろうか。


二つの国立療養所がある岡山県長島と本島を結ぶ橋。1988年架かる。

本土と島を結ぶ「人間回復の橋」がかかったのは、'88年。その8年後、「らい予防法」が廃止された。新法では社会復帰への支援もうたわれているが、予防法廃止後に社会復帰できたのは、全国でわずか13人である('00年4月現在)。奪われ続けてきた人権は、形のうえでは取り戻されたように見える。「しかし」と、中山さんは言う。「私が国賠訴訟の原告に立つという話が広まると、 ”今さら寝た子を起こすようなことをしてくれるな””もうそっとしておいてくれ” という声が伝わってきた。自分たちの声が公に出ることによって、身内に迷惑をか けるんじゃないかと心配してるんや。廃止された予防法が、今でもこういう形で生 きてる。法律がなくなっただけではどうにもならんのや」。今もなお多くの人が偽 名を使い、全国13ヵ所の療養所には2万数千体にのぼる遺骨が家族に引き取られ ないまま眠っている。これらは「生き残った」人々の生活を保障するだけではすま ない問題だ。90年にわたる差別の歴史の後遺症は、今も置き去りのままなのである。

熊本地裁でのハンセン国賠訴訟は、'01年早春に判決が下る予定である。東京、岡山がそれに続く。「こういうことが起きたのは、時代のせいじゃない。過った考えの特権者がいれば、いつでも起こり得ること。これからの戒めとしても、国を動かした人を問いたい」という中山さんの思いの行方を、私たちもしっかりと見届けなくてはならない。

参考資料「知っていますか? ハンセン病と人権 一問一答」
編集:ハンセン病と人権を考える会 発行:解放出版社
写真集「ハンセン病療養所 隔離の90年」
写真:太田順一(現代編) 全国ハンセン病療養所入所者協議会編
発行:解放出版社


 
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