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京都府宇治市ウトロ51番地----過去の精算が終わらない在日コリアンの町

2005/11/11


個人史の集積が在日コリアンの大きな歴史の流れ

2005年現在、町内会が行った生活環境調査によると、ウトロ地区に暮らす65世帯、約200人のうち、▽戦中に京都飛行場建設工事に関わった1世と子 孫、▽その親類縁者、▽戦後(1945年以降)にウトロに移住してきた家族とその子孫が、それぞれ3分の1ずつを占めるという。65歳以上の高齢者を含む 世帯が30世帯、その中で高齢者だけの世帯が16世帯20人、うち高齢者の一人世帯が12世帯。生活保護世帯が全体の約20%(宇治市へ平均約1%)、年 金受給者8%(日本人平均90%以上)と、2~3世の比較的経済力のある若い世代がウトロから転出し、「社会的弱者」が残っている傾向にある。癌で自宅療 養中の80代、単身の1世が戸外の汲み取り式トイレの家に居住しているという、深刻なケースもあるという。
話を聞いた文光子さんの生まれ故郷は、慶尚南道の馬山という村。比較的裕福な地主だったそうだが、父親が村人の借金の保証人になったために、村に居れな くなったという。1927年、7歳の時に「まるで夜逃げのように」家族で村を出て、玄界灘を渡って東京、次いで山口県へ。「チョーセンジン」と言われて石 を投げられたことが今も心に痛い。関西へ越して来たのは、同胞が多いからだ。大阪から、結婚後にウトロへ。飛行場建設の「人夫」となった夫の仕事はきつ く、「服が一日で破れた」。戦後、鉄屑拾いなどの仕事をして、6人の子どもをウトロで育てた。
「戦後、(国に)帰れる者は帰った。どうにもならん私らがここに残った」
田丁年さんは、先に来日していた夫と結婚のために、「花嫁待機」を待って1939年に玄界灘を渡ったという。夫は戦後ウトロに拠点ができた朝鮮総連関係 団体の「先生」だったが、その職を失った後、7人家族の生計を担い、「働ける仕事は何でもしてきた」という。
「(ウトロの地が)好きでも嫌いでも、私らここに住まなしゃあないねん」
と、とつとつとした口調で語ってくれた。

未だ“戦後”が訪れない2005年夏のウトロ

「朝鮮で事業に失敗したから、借金抱えて、口べらしのためなど、一世が戦前戦中に日本に来た事情は“個人史”です。しかし、その根底に、植民地政策の中で 日本は慢性的に労働力が不足していたこと、朝鮮半島の小作農が土地を奪われ転落していったことがあり、そういった個人史の集積が歴史の大きな流れなのです」
と、厳本さんは言う。
戦後60年を経た今、ウトロにはすでに6世まで誕生している。もちろん、ウトロから他の地に移り住んだ人も多いが、「出て行かなかった」「出て行けな かった」人やその子孫たちの事情もまたそれぞれの個人史であり、その集積が日本における在日コリアンの歴史なのである。
「過去の歴史の総括がなされていないことが、日本にとってどういうことか。総括がなされない限り“戦後”は訪れないことを、ウトロを例にして考えてほしいと思います」
なお、ウトロの土地はその後所有者が変わり、現在は大阪在住の個人の所有となっている。

先述のとおり、立ち退き判決後、町内会と守る会が一丸となって行政の介入を求めてきたが、未だ前向きな具体的回答が得られていない。そのため、5月の住民 集会で住民自らが土地を買い取ることで解決させる方針に転換。対象の「ウトロ51番地」は、道路や水路などの共有スペース、空き家、空き地部分も含めて約 2万1000平方メートルの広さだ。資力のある住民が自らの占有部分についての資金を準備するほか、資力のない住民の占有部分や共有スペースなどは、ウト ロ町内会名義にして、生活を守る意向だ。そのための募金活動が、8月からまず韓国で、続いて日本でも始まっている。

05年7月~8月取材 text:井上理津子