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京都府宇治市ウトロ51番地----過去の精算が終わらない在日コリアンの町

2005/11/11


植民地支配の犠牲で来日し、国策会社で長時間重労働

文さんの写真
1942年からウトロに住む文光子さん(86)。
現在1人暮らしだ。

ウトロに在日コリアンが住むようになったのは、1940年ごろから。国内5カ所に軍事飛行場を建設する計画が立てられた。その一つが、宇治市の約1万 1000平方メートルの土地に1940年に起工された「京都飛行場」で、国策会社「日本国際航空工業(株)」が設立され、工事を竹中組(現・竹中工務 店)、大倉組(現・大成建設)、大鳥組(現・大鳥建設)が担当した。
その工事に従事した約2000人の「人夫」のうち、約1300人が各地から人海戦術で集められた朝鮮人。低賃金で強靱な労働が求められたからだ。「強制連行」ではなく、自ら仕事を求めてやってきた彼らだが、その背景に当時の日本の植民地支配が あった。朝鮮の主に農民たちは、「土地調査事業」の名のもとに、日本に土地を取り上げられたため、故郷での生活が立ちいかなくなり、日本への移住を余儀な くされたのである。来日しても割の良い仕事につくことは皆無で、同胞からの口コミを頼りにやっとありつけるのは低賃金の肉体労働。ましてや徴兵の恐怖がつ きまとう。そんな中で、「国の仕事だから、徴兵を免れる」との飛行場の仕事の情報は魅力だった。
1927年に15歳で来日した故・金壬生(キム・インセイ)さんもその一人。長野県の天神川ダムを皮切りに、三重県や京都府の工事現場を点々としたあと、 1941年ごろ人づてに京都飛行場の「人夫」募集を知りやって来たと記録に残る。徴兵免除に加えて、家族も一緒に「飯場」と呼ばれるバラック長屋の宿泊所 に住むことができるのがありがたかった。この飯場が、ウトロ地区の前身である。

「でも、飯場は人間の住むところやなかった。一棟に表裏6軒ずつ仕切られていて、何人家族でも、あてがわれたのは板張りの6畳に、3畳か4畳の土間がつい ただけの部屋。屋根は杉皮で、天井はなくて屋根裏だけ。雨が漏って洩って……。冬は雪が入って来てものすごく寒く、窓がないから夏の暑さもひどい。間仕切 り越しに隣の部屋も丸見え。水道もなく共同の井戸。便所も共同。風呂はない。人間の扱いやなかったけど、あのころ朝鮮人はみんなそうしたものだった」
こう証言するのは、1942年に夫婦で飯場に入った文光子(ムン・クワンジャ)さん(86歳)だ。文さんは、飯場の「飯炊き」として働いた。
男たちの仕事は、丘陵地の竹薮を丘をスコップで切り開いて、土砂をトロッコに積むこと。そして、そのトロッコが機関車で滑走路まで引っ張られたあと、滑 走路に土砂を下ろし、スコップで均すこと。夜明けから日没まで。想像を絶する長時間の重労働。日本人の指揮のもと、休むと日銭が入らないから、ケガをして も病気になっても休まず働き続けた。
敗戦の色が濃くなった1945年7月、3回の爆撃を受けて敷地内の軍需工場が壊滅。勤労動員の女子学生6人が死亡したものの、朝鮮人労働者に死傷者は出なかったという。

失業と極貧状態から始まった戦後

そして迎えた敗戦の日。「日本の植民地から解放される時が来た」とウトロ中が沸いた。今日はあっちの家、明日はこっちの家と、鶏をつぶしてみなで祝った……までは良かったのだが、その後が悲惨だった。
「京都飛行場の建設工事は中止となり、飛行場と工場はGHQに接収されて米軍基地になりました。私たち朝鮮人労働者は仕事をなくし、配給も打ち切られたんです」と、文さん。
敗戦時に日本国土にいた朝鮮人は約210万人。そのうち、日本の軍人・軍属とされた朝鮮人約36万人(うち2万2000人戦死)、炭坑や軍需工場などに 強制連行された朝鮮人約72万人とされるが、残る100万人以上の朝鮮人もまた、ウトロ住民のように、日本による植民地化の歴史に翻弄されてきた人たち だったのである。
ウトロ住民が働いた国策会社の日本国際航空工業(株)は、46年2月に日国工業(株)と社名変更。同年10月には、新会社としてアメリカ軍向けトラック やバスなどの生産をする新日国工業(株)(=のち1962年に日産自動車系列、日産車体に)が誕生。旧会社の日国工業は旧軍需会社の資産の精算を目的とす る会社となり、ウトロの土地もその中に含まれたが、いつしか日本人はいなくなり、労賃の支払いも生活の補償も何らないまま放置された。

文さんの写真
バラックが並ぶ戦後のウトロ

帰国したいが、朝鮮にはすでに家がない。旅費もない。ないない尽くしの朝鮮人たちがウトロに取り残されたのである。戦後の混乱期に、朝鮮人が日本で生きていく労苦は想像に余りある。
「食糧は、周辺の土地を耕してイモを作って自給。アメリカ軍の演習場で、命からがら砲弾の破片を拾ってきて屑鉄業者に売った。みんな明日食べていくために必死でした」(文さん)
劣悪な環境はその後も続いたが、ウトロに同胞が集まってきた。つまはじきにされる日本人社会よりも同胞が寄り添うウトロの方が暮らしやすく、故郷の情報 も得やすかったからだ。そのような状況の中で、ウトロは朝鮮半島へ帰国する中継基地・情報センターの役割を果たすようになり、一棟の長屋を教室に帰国前の 子どもたちに母国語などを教える民族学校も開設された(民族学校は49年、日本政府の弾圧により閉鎖)。
50年に朝鮮戦争が始まると、ウトロに隣接する大久保基地が米軍の兵站拠点となった。新日国工業が車両や爆薬を作り、莫大な利益をあげる。ウトロ住民 は、なんとも皮肉な光景を目のあたりにして暮らさなければならなかった。52年3月には、鉄砲を担いだアメリカ兵100人以上が「出て行け」と現れ、決死 の覚悟で「出ていかない」と抵抗するという緊迫の場面もあった。
そうこうするうちに、朝鮮半島が政情不安定となり、「帰国したくても帰国できない」状況に拍車がかかる。ウトロの朝鮮人住民たちはそのまま定住するしかなくなったのである。