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親のしんどさ、子どものつらさ

 他人なら介護者をチェンジしたり、割り切って考えることもできますが、親となるとそうもいきませんよね。障害の度合いによって違うでしょうが、よかれと思って世話を焼き過ぎてしまったり、ハードなリハビリに邁進したりするケースも多いようです。行動は正反対ですが、どちらも「親の責任」を必要以上に抱え込んでいるように見えます。

 そうですね。だからまず、「私に(障害者の親という)責任はない」と思うことです。なかなかそうは思えないでしょうが。「(親なんだから)責任がある」というのも思い込みなんだけど、僕らの社会ではそっちの思い込みの方が自然なようなものになってしまっているでしょう。だから敢えて「この子はこの子。私は私。何もかも責任を負ってやることはできない」と思ってもいい、むしろそう思うべきだと考えてほしいんです。
 子ども側からの話でいえば、コストパフォーマンスってやっぱりあると思う。たとえば実際によく聞く話なんですが、身体の機能を少しでも「できる」ようにするためにすごく遠い場所の施設まで通わせて、時間とお金を遣うというような。それだけかけても見合うものがあって、本人も納得するなら構わないけど、場合によってはそういう努力のために失っているものが多いこともままあると思うんですよね。だから、親であろうと自分のことを勝手に決めさせたらあかん。自分の人生やから自分で決めないとやっぱりあかんのや、と。そこから自己決定という話が出てくるんですけど。

親をフォローするシステムも必要ですね。

『親プログラム』というものがあるにはあるんですよ。当事者サイドから親たちに対して「気持ちもわかるけど、ありがた迷惑な部分もあるよ」みたいなことも含めて、親子関係を考えるというものです。「そんなのは先の話。まずは本人の意識改革だよ」という人もいるから、どこでも取り組んでるわけではありませんが。
 いずれにしても、「どんな子どもが産まれても、それは親の責任ではない」ということをはっきりさせておかないと、いろんなところで親の責任や義務だという話になります。だから無理をしてでも親自身が責任感や義務感を切り捨てていかないと、ちょっとやばい。

時には親と対立してでも「自分のことは自分で決める」という意識を持ちつづける・・・。自己決定という言葉の重みを感じます。

 ほんといえば、僕自身は自分の人生を自分で決める「べき」であるとは思わないですよ、ある意味では。「流されて、着いてみたらここでした」という人もいてもいいし、そういう人生があってもいい。ただ、そうするとやっぱり「渡る世間は鬼ばかり」じゃないけど、「こうした方がいいわよ」とか「こんなもんでいいでしょう」とか、誰かの好きなようにさせられる、そしていつの間にか自分にとって気持ちのいい人生からかけ離れてしまうという恐れがある。そういうところで自己決定という権利は役に立つものだと思うんです。いわば気持ちよく暮らすための権利といったところでしょうか。
 もちろん自己決定が「できる」ということが人としての資格でもなければ、一番大切な価値でもありません。現実問題として「できない」人もいます。すると「代わりに決めてあげる」という場面が残りますね。そこで次は「どういうふうに代わりに決めたらいいのか」というのがテーマになります。つづく、みたいな(笑)。

フリーな立場から見えるものを伝えていきたい

 話は変わりますが、「学問としての福祉と自分の実感の間には大きなギャップがある」と言った車椅子の友人がいました。立岩さんはドップリと学問の世界に身を浸しておられるんですが(笑)、現場とのズレやジレンマを感じられることはありますか?

 僕がやっている社会学というのは、社会福祉学や看護学なんかとはちょっと違うんですよ。社会福祉や看護という“業界”を背負い、それを職業としている人たちに向けた学問が、社会福祉学であり、看護学なんです。ですからたとえば社会福祉の“専門性”を基本的には肯定するという立場に予め立っていうという部分があるんですよね。だけど社会福祉を使う側にすれば、専門性というのが必ずしも自分たちにとってプラスではないという場合があるんです。
 で、僕なんかは背負わなければならない“業界”もなければ、社会福祉や看護を職業としているわけでもない。そういう立場で当事者たちの話を聞き始めたら、「社会福祉学」が言ってるのと違うことが色々出てきたんです。そこで「僕のいる場所から見たら、すでにある社会福祉学というものに対してどういうことが言えるだろう」と思ったわけです。

同じ学問の世界でも、社会福祉学や看護学とは立っている場所が違うんですね。

 だから敵視しているわけではないんだけど、結果的に社会福祉学とは言い分がズレている部分がありますね。そのズレをどうすればいいのかを考えるのが、僕の仕事なんです。たとえば「じゃあ専門性をどう考えるのか」「専門性の不要な部分はどれか」とか。
 もちろん社会福祉学をやってる人たちも考えていることなんだけど、より勝手に、外野席から野次を飛ばすみたいな感覚でやれるっていうのは、無責任といえば無責任だけど、自由といえば自由ですよね。
 ただ僕は、完全に自由というよりは、実際にサービスを利用している側のサイドに立って書いてきました。一体化しているわけではなく、選択したんです。関わって調べていくうちに「基本的にはあなたたちのサイドに立ちます」と思ったわけで。だから外野とはいえ一方の側についているんですけど、「文句が言いたくなったら言うよ」という感じかなあ。
 社会学ってそういうところがあるんですよ。僕は世の中で一番いいかげんな学問やと思ってるんですけど(笑)。そこが僕は好きですけどね。

次のテーマは何でしょう?

 ちゃんとしたものを書きたいと思っています。「弱いまま生きていってもいいじゃないか」というのに対して、「そんなこと言ったって金がかかるじゃないか。これから日本は少子高齢化で大変なのに、その金はどこから持ってくるんだ」と言う人がいるでしょう? それに対抗するための理屈です(笑)。

「弱くある自由」の向こうにどんな風景が広がっているのか、楽しみにしています。ありがとうございました。

シリーズ1回目はこちら

●立岩さんのホームページはこちら
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点

立岩真也(たていわ・しんや)
‘60年、佐渡島に生まれる。’90年、東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、信州大学医療技術短期大学部助教授。社会学専攻。著書:『私的所有論』(‘97年、勁草書房)、『弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術』(‘00年、青土社)共著『生の技法』(‘90年藤原書店)

 


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