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ふらっとへの手紙



ふらっとへの手紙 北出新司さん from貝塚 vol.4

2015/06/04


差別のなかでもしたたかに生き、貧しいなかでも文化を育み、引き継いできた ~「ある精肉店」の店主のはなし 北出精肉店 北出新司さん

自分たちの仕事や暮らしをあらためて辿るなかで

 1年半にわたった映画撮影のなかで、ぼくたち家族はあらためて自分たちの仕事や家族、地域、運動のことを考えました。父親の言葉や仕事のやり方をみんなで思い出しながら話し合ったり、19歳で父親と結婚し6人の子どもを産み育てた母親の話をあらためて聞いたり。撮影時にはもう貝塚市立屠畜場の閉鎖が決まっていて、ぼくたちの仕事も自分たちで育てて割った牛を小売りするという形態から、枝肉を仕入れて小売りするという形態へと変わることになっていました。長年部落解放運動をやってきたこともあり、差別されてきた家業や親たちに対する思いはありましたが、映画づくりがなければあらためて話し合う場はもてなかったかもしれません。

 弟は太鼓屋を始めました。江戸時代の古文書にはぼくたちの地域の記録が残っています。当時、岸和田藩に属し、初回に書いたように「たおれ牛馬」の皮をなめして藩に馬具や武具を収めていました。太鼓も作っていたようで、3軒の太鼓屋があったという記録もあります。

 ぼくたちが生まれた頃にはもう太鼓屋はなく、割った牛の皮は「皮屋さん」に引き取ってもらっていました。けれど弟はいつか太鼓を一から自分で作ってみたいという思いがあり、何枚かの皮を手元に残していました。最後の牛を割り、牛がいなくなった牛舎で弟は「師匠」と呼ぶ熟練の職人さんに教えてもらいながら太鼓づくりを始めました。屋号はかつての地名「嶋村」を使っています。「太鼓屋 嶋村」、なかなかいいでしょう。

  したたかに生きてきた姿や文化も伝えたい

 盆踊りやだんじりも準備の段階から撮影してもらいました。かつてぼくたちの地域は祭りからも排除されていました。昔、うちのだんじりは小さく質素なものだったらしく、まわりから「汚いだんじりをもってくるな」と仲間はずれにされたそうです。もちろん背景には部落差別があります。

 そこでみんなが奮起して、貧しいなかからお金を集め、周辺のだんじりにひけをとらない立派なだんじりを1951年に新調しました。以来ぼくたちは大事に手入れをしながらだんじりに参加しています。

 盆踊りも同じく、貧しく働きづめだった時代から年に3日だけ許された楽しみでした。仮装したり夜通し踊ったりして過ごし、また1年がんばるのです。そうした歴史的な経緯の説明も入れながら撮影してもらいました。部落解放同盟の支部大会や水平社宣言のことも少し出てきます。それはやはりこの映画が差別の助長ではなく、差別をなくすことにつながってほしいという思いからこだわった部分です。

 とはいっても、ことさら差別の悲惨さや「差別に負けない」ということを強調したくはありませんでした。虐げられてもしたたかに生きてきたことや、地域の文化をみんなで守り育ててきたことを感じてもらえたいと考えました。

食べること、そこに携わる仕事について考えてほしい

 同時に「ある精肉店のはなし」というタイトル通り、「食べる」ということやそこに携わる仕事について考えてもらえたらという思いがありました。地域の住宅を建て替える時、史跡調査をしたら牛の骨や骨捨て場の跡が見つかりました。西暦1450年ぐらいの地盤だそうです。井戸や住居の跡、茶碗の欠片なども出てきました。江戸時代の古地図には字皮張、皮張り場という地番が5カ所ほどあります。つまり少なくとも約600年前からぼくたちの祖先はここで牛や馬を解体し、皮をなめす仕事をしていたということです。

 伝統をありがたがる風潮がありますが、そういう意味では代々同じ仕事を引き継いできたぼくらは「由緒正しい」わけです。もちろんこれは皮肉で、「ありがたい伝統」と「忌避される伝統」の間に何があるのか、みなさんに考えてほしいと思います。

 結果的に監督やぼくたちの思いを受け止め、考えてくれた人は多かったようです。映画館だけでなく、学校や行政など幅広く依頼上映や講演依頼があります。全国からわざわざうちの食肉店を訪ねてくる人たちもいます。夏休みに九州から来た大学生の2人連れを家に泊めたこともあります。自分たちが育てた牛を自分たちで割り、顔の見えるお客さんに売るという形がなくなったのは寂しいけれど、仕方ありません。けれども地域でつくったものを地域で食べる「地産地消」は、食の安全や地域の産業を守るという意味でも大事なことだと今も思っています。この映画が今一度「食」について考えるきっかけになればうれしいです。(2015年4月談)

●映画『ある精肉店のはなし』公式サイト