「部落差別解消推進法」10年 何が変わり、何が残されているのか〜包括的差別禁止法を見据えて 九州大学 内田博文さん
2026/07/28

部落差別の解決を目指してきた歴史的背景
「部落差別解消推進法」制定までには、1980年代からの歴史的背景と経緯があります。まずはそれを知っていただきたいと思います。
部落差別の根本的解決を目指す法整備の動きは、1985年5月に「部落解放基本法案」が法制定要求国民運動中央実行委員会によって発表されたことによってはじまります。しかし、基本法の制定は実現しませんでした。そのため当事者団体や同実行委員会は、基本法に盛り込まれた各内容を個別の法律を積み重ねることで実現していく「積み上げ方式」へと戦略を転換しました。
2001年5月、人権擁護推進審議会による人権救済制度のあり方についての答申が出され、救済および組織に関する法律の制定が打ち出されました。これを受け、2002年に小泉内閣が「人権擁護法案」を提出しました。
この法案には「部落地名総鑑」の作成・販売禁止なども盛り込まれていましたが、報道機関による人権侵害も救済対象とした点や、人権委員会の独立性への懸念から報道機関や一部野党が強く反対し、2003年の衆議院解散により廃案となりました。
その後民主党政権下の野田内閣が人権委員会設置法案を提出しましたが、再び廃案となりました。その後の安倍政権では人権救済の一般的な枠組みではなく、個別の差別事由に対する個別の禁止法をめざす動きを加速しました。
2016年12月、超党派の議員提案により「部落差別の解消の推進に関する法律」(部落差別解消推進法)が成立しました。この法制定を急がせた大きな要因は、インターネット上での差別情報の拡散です。
同年、戦前の『全国部落調査』がネット上にアップされ、復刻版の出版が予告されるという「事件」が発生しました。こうした背景から、法第一条には「情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じている」ことが明記されています。
部落差別解消推進法の内容と定義の議論
本法は法律名に「部落差別」を初めて冠した「恒久法」です。従来の「特別措置法」が期限付きであったのに対し、部落差別が解消されるまで効力を持ち続けることに意義があります。障害者差別解消法、ヘイトスピーチ解消法に続く3つ目の個別の差別解消法として位置づけられています。
本法は第一条から第六条、附則で構成されています。そのうち、第1条では「目的」、第2条は「基本理念」、第3条は「国及び地方公共団体の責務」、第4条は「相談体制の充実」、第5条は「教育及び啓発」第6条は「部落差別の実態に係る調査」を規定しています。
ヘイトスピーチ解消法には定義がある一方、本法にはありません。理由について提案者は、「われわれが今、念頭においているのは心理的な差別です。インターネット上に出てくるように地域に限定されません。そのことをあえて定義という格好で限定することは、心理的な側面をもった今の差別に対して果たして適切なのかどうか。むしろ部落出身であることを持って差別される、そういう一般的な理解で良しとすると考えた次第です」と説明しました。
さらに、本法には差別行為に対する禁止規定や罰則は置かれていません。本法が国民の理解を深めることで解消を図る「理念法」としての性格を持つためです。
提案者側は、旧同和対策法のような大規模な財政出動、「地域改善対策事業」を求めるものではないことを明言し、政治的な合意形成を図りました。こうしたことから部落差別解消推進法は「部落解放基本法の内容を部分的に含んだ理念法である」と評されています。
「部落差別の存在」を明文化した意義は大きい
当事者団体が求めてきた「部落差別」という用語が法律で正式に用いられたことは、極めて大きな意義があります。
同和対策審議会答申を受け、1965年に特別措置法が制定されました。しかし2002年の同法失効後は再び「憲法だけで法律を欠く」状態となり、「同和問題」に対する国や自治体の取り組みは「法的根拠がない」とする批判や見解が見られるようになりました。
また、被差別当事者がカミングアウトして差別被害を訴えることの障害ともなり、差別被害を可視化することを長らく妨げてきました。
本法が「現在もなお部落差別が存在する」と明文化したことで、差別の存在の有無に関する議論に終止符が打たれました。国民に対して共通の尺度を提供することが法律の使命であり、今や部落差別へのとりくみは、個人の認識の問題ではなく、法律に従うか否かの問題となりました。この意義は同対審答申の比ではありません。
本法により自治体の施策に明確な法的根拠が与えられました。特に第六条の「実態調査」は部落差別の実態を可視化し、定義規定の不在を補完する役割を果たすと期待されています。この調査結果に基づき、国や自治体が行うべき教育・啓発の内容がより具体化されることになります。実際に、本法の制定を受けて「たつの市部落差別の解消の推進に関する条例」、「福岡県部落差別の解消の推進に関する条例改定」「奈良県部落差別の解消の推進に関する条例」など各地で差別解消条例の制定・改正が加速しました。
インターネット上の人権侵害と国際的な法的格差
ネット上の誹謗中傷や差別情報の削除について、日本では長らくプロバイダ等による「自主的な取り組み」が中心でした。
2024年のプロバイダ責任制限法の改正(情報流通プラットフォーム対処法)により窓口整備や判断基準の公表、結果通知が義務付けられました。しかし依然として国の役割は「自主的取組の支援」に留まっています。法務省は「同和地区であると指摘する情報の公開」を人権擁護上許容し得ないとして削除要請の対象としていますが強制力はありません。
これに対しドイツでは2017年成立の「SNS対策法」により、明らかな違法情報を24時間以内に削除することを義務付け、違反した事業者には最大5000万ユーロ(約60億円)の過料を科す強力な法的枠組みを運営しています。
フランスにも一時間以内の削除を求める法律があります。インターネットには国境がないなか、日本の「自主規制頼み」の姿勢は国際水準から大きく取り残されています。
人権教育・相談・救済における「構造的な壁」
日本の学校教育には「人権」という独立した教科がなく、道徳や公民の中で断片的に扱われています。そのため、どのような課題を教えるかは現場の裁量に委ねられ地域による格差が著しいのが現状です。
2025年6月の「第二次人権教育啓発基本計画」では、ネット上の差別情報への対応などが新たに書き込まれましたが、依然として「思いやり」といった自助努力が重視される傾向にあります。救済制度や法的権利を教える機会が少ないため、相談制度が十分に機能していません。
法務省の人権擁護機関は「任意調査」しか行えず、文書提出や立入検査を求める「強制調査」の権限がありません。その結果、多くの事案が「侵犯事実不明確」として処理され、実効的な救済に至っていません。
また、日本の裁判所は差別を「個人的な名誉毀損やプライバシー侵害」と狭く捉える傾向があります。集団に対する差別行為であっても個人に具体的な損害がなければ不法行為と認めないという解釈が、被害救済の大きな障壁となっています。
2016年、川崎市の出版社「示現舎」と同社代表「M(鳥取ループ)」に対して、部落解放同盟と幹部ら234人が『全国部落調査』復刻版出版差し止め訴訟を起こしました。一審の東京地裁はプライバシー侵害は認め、出版差し止めとネット上でのデータ配布の禁止に加えて、Mに対して原告に対する損害賠償を命じました。一方で「差別されない権利」の侵害までは認めませんでした。そのため、被告と原告団・弁護団の双方が控訴しました。
2023年6月の東京高裁判決は、憲法13条(幸福追求権)、14条(法の下の平等)に基づき、「不当な差別を受けることなく、人間としての尊厳を保ちつつ平穏な生活を送ることができる人格的な利益」を、法的に保護された利益として認めました。これが「差別されない権利」です。
この判決は、地名リストの公表がこの権利を侵害していると断じ、差し止め範囲を大幅に拡大させました。差別そのものを法的に断罪する新たな地平を切り開いた意義は極めて大きいと言えます。
包括的差別禁止法の必要性と国際的な要請
現在、日本で差別解消法があるのは部落、障がい者、外国人に限られ、外国人差別の場合は一部だけで、性自認や他の社会的マイノリティには法規制がないという「格差」が生じています。これを解消するためには定義や救済手続き、独立した人権機関の設置といった「共通のルール」を包括法で規定し、個別の課題は個別法で対応するという「二階建て」の法体系が必要です。
包括的な差別禁止法の制定に向けた課題は少なくありません。法案づくりもそのひとつです。
包括的な差別禁止法で置くべき規定としては、「差別の定義に係る規定」「差別の禁止に係る規定」「国・自治体の責任・責務に係る規定」など多岐に渡ります。
部落解放・人権研究所内に設けられた差別禁止法研究会では、2021年6月に「差別禁止法要綱案(骨子案)」を発表しています。「すべての人に関わる法律」だと認識してもらえるよう、名称を「すべての人の無差別平等の実現に関する法律(案)」としました。現在、この骨子案について、被差別団体および有識者などからのヒアリングが積み重ねられ、法案のブラッシュアップが図られています。
国連からは、パリ原則に基づく独立した国内人権機関の設置や包括的な差別禁止法の採択、個人通報制度の導入を繰り返し求められています。しかし、日本政府は条約の直接適用を否定し、国内の救済体制で十分であるとの立場を崩していません。こうした日本政府の姿勢は国際化に逆行する鎖国状態であると言わざるを得ません。
EUでは2000年以降、包括的な差別禁止法の整備が加盟国に義務付けられ、イギリスの「平等法」やフランスの「差別禁止法」などが誕生しています。これらは複数の差別事由を網羅し、複合差別、「人種、性、障がいなどが重なり合う差別」にも対応しています。
東京都国立市の包括的差別禁止条例や、福岡県、和歌山県の身元調査・地名調査規制条例など自治体レベルでは国を先駆ける取り組みが進んでいます
和歌山県では2024年から、勧告に従わない事業者への公表制度も導入されました。また、235の自治体が実施しているネット上のモニタリング事業は、これまでに1万数千件の削除を実現しており実効的な成果を挙げています。
差別に県境はありません。自治体ごとに格差があると、それにつけ込んで差別が温存させるリスクがあります。したがって国の法律がナショナル・ミニマム(最低基準)を示し、自治体が地域の実情に応じたきめ細かな施策を講じるという「車の両輪」の関係が不可欠です。
差別されない権利」を糧に、当事者運動と理論の連携を
残された課題の解決のため、「部落差別解消推進法」の今後の法改正に向けた視点として以下の項目が挙げられます。
「国民の責務」の明記
「被害者救済制度」や行政組織の規定
「部落差別解消施策に係る基本方針・基本計画」の策定・義務化
「部落差別白書」(仮称)の作成・公表による検証
また差別禁止法研究会が提案する「すべての人の被差別平等の実現に関する法律(案)」では、以下の14項目を共通ルールとして規定すべきとしています。
1.差別の定義、2.差別の禁止、3.国・自治体の責任・責務、4.国会・裁判所の責任・責務、5.民間企業の責任・責務、6.国民の責任・責務、7.被害の実態調査、8.調査に基づく定義の見直し、9.相談窓口、10.人権教育・啓発、11.救済機関、12.自治体条例の役割、13.当事者参加の保障、14.個別の差別禁止法との関係
21世紀の人権は「当事者による当事者のための人権」でなければなりません。包括法の制定には、多様な当事者団体が集結し、共同行動をとることが不可欠です。
また罰則についても、川崎市のヘイトスピーチ条例のように、厳格な手続きを踏んだうえでの導入を検討すべき段階にきています。ただし、罰則には「法の網をかいくぐる言動」を助長する副作用もあり慎重な検討が必要です。さらに実効性を支えるための「人・もの・金」という資源の確保も重要な現実的課題です。
部落差別解消推進法の制定から10年。法律によって差別の存在が公に認められたことは大きな一歩でした。一方で、実効的な救済システムの構築や、国際基準に沿った包括的な法整備については、依然として大きな課題が残されています。
「差別されない権利」という司法の新たな地平を糧に、すべての人の尊厳が守られる「包括的差別禁止法」の制定、そして日本の「人権の開国」に向けて当事者運動と理論の連携をさらに強めていくことが求められています。
講演・2026年5月25日

