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冤罪という過ちを繰り返さない社会へ 〜大崎事件が問う、司法・メディア・市民の意識 鴨志田祐美さん

2021/07/09


冤罪という過ちを繰り返さない社会へ 〜大崎事件が問う、司法・メディア・市民の意識 鴨志田祐美さん

【大崎事件の概要】 ※原口アヤ子さん以外は仮名
 1979年10月15日、鹿児島県曽於郡大崎町で、中村四郎さん(当時42歳)が自宅横にある牛小屋の堆肥の中から遺体となって発見された。
 四郎さんは中村家の末子で、長男の一郎さんや二男の二郎さんとともに農業を営んでいた。一郎さんの妻だった原口アヤ子さんは、一郎さんら親族の「自白」により殺人・死体遺棄主犯とされ、一郎さんらとともに逮捕される。一貫して無実を主張したが、1980年に懲役10年の判決が言い渡された。控訴、上告するもいずれも棄却され、服役。出所後の1995年4月、第1次再審の申し立てをする。3回にわたって再審開始が認められたが、いずれも検察官の抗告により取り消された。
 同じ事件で再審開始決定が3回も出されながら、いずれも「ふりだし」に引き戻されるという異例の経過をたどっている。

 

捜査機関の思い込みを「供述弱者」の自白で固めた冤罪

ーーどの冤罪も大問題ですが、大崎事件固有の「問題点」はありますか?

 まず、主犯とされた原口アヤ子さんが一度も自白していないことです。これは冤罪事件の中でも珍しい。冤罪事件では警察の厳しい取り調べに追い詰められ、やっていないことを「やりました」と言ってしまい、後から「実はやってません」というケースが多いんです。

 でもアヤ子さんは逮捕されてから今日に至るまで一度も認めたことがありません。これだけ自分の無実を一貫して通す意思の強さは特筆すべきだと思います。

 そんな彼女がなぜ冤罪に巻き込まれてしまったのか。大きな理由は2つあります。

 ひとつは、最初から「殺人・死体遺棄事件」とした捜査機関の思い込みです。被害者は遺体で発見される3日前に、酔っ払って側溝に転落しているところを近所の人に発見されました。転落した時に致命傷とみられるほどの大怪我を負っていたとみられます。発見した近隣の住民2名が親切心で家まで運んでくれたんですが、四郎さんはしょっちゅう酔っ払っていた人だったので「いつものこと」と思われて大怪我が見過ごされ、酔っ払い扱いで家に運ばれる間に亡くなってしまった。これまでに弁護団が依頼した法医学者や救命救急医の鑑定では、転落によって受けた首の損傷から全身状態が悪くなり、体内で大出血を起こして死亡した」という見立てです。

 ただ問題は、遺体が牛小屋の堆肥の中に埋められていたこと。通常は事故で死んだ人を埋めたりしません。死体遺棄事件」の存在は動かしようがないこと、ここが大崎事件の難しいところです。

 確定判決では、アヤ子さんや親族が酒癖の悪い四郎さんをよく思っておらず、酔いつぶれているところを共謀して殺したと認定されました。しかし先に述べたように、アヤ子さんは周囲が次々に「自白」しても一貫して否認しています。そして有罪とした裁判所も「保険金目的」は否定しています。

 酔っ払いのつもりで運んだ四郎さんが亡くなっているのに気付いた近隣住民2人が、驚いて埋めてしまった・・・というのが真相だと弁護団は考えています。ところが警察が「殺人・死体遺棄事件」と決めつけて捜査を開始したため、転落事故についてはほとんど捜査の対象にされませんでした。

 アヤ子さんは大家族の農家に暮らす「長男の嫁」でした。保守的な地方の長男の嫁は、一家を切り盛りする立場です。だから「葬式代に」とそれぞれに保険をかけていたのを、捜査機関は「保険金目的の殺人」という絵を描いてしまったんですね。こうなるともう引き返せまん。別の可能性について調べないまま、自分たちの見立てに合った証拠だけを集めることに集中したとしか思えません。

 もうひとつは、捜査機関が描いた絵のなかで自白を搾り取られた「共犯者」の男性が3人いたことです。アヤ子さんの夫だった一郎さんを含め、全員が知的障害を抱えていました。

 知的障害を抱える人が冤罪事件に巻き込まれることは度々あり、近年は「供述弱者」という概念や言葉が知られるようになってきました。湖東記念病院事件の西山美香さん、足利事件の菅家利和さんをご存知の方は多いのではないでしょうか。

「知的障害」にも幅があり、一見、問題なく生活できているように見える人でもコミュニケーションや込み入った話が理解しづらいといった軽度の知的障害をもつ人たちがいます。西山さんは看護助手として勤務していたし、菅家さんは運転免許をもち、働いていました。けれどひとたびトラブルに巻き込まれた時、筋道立てて説明したり、論理的に反論したりできず、あっという間に不利な立場に追い込まれてしまうんです。私には知的障害のある弟がいます。警察から強い言葉で責められたり、「こうだろう!」と決めつけられたりすると「はい」と言ってしまい、虚偽自白に追い込まれてしまう状況が手に取るように想像できました。

 湖東記念病院事件や足利事件で「供述弱者」の存在が知られるようになりましたが、大崎事件が起きた1979年当時にはそんな認識や配慮はまったくありませんでした。知的障害のある人たちをガンガン責めて自白を絞り取り、アヤ子さんを巻き込んでしまった。これが大崎事件の冤罪の構図だと考えています。

すべての事件において参考人も含めた「可視化」を

ーー「袴田事件」「布川事件」「東電OL殺人事件」・・・これまで冤罪事件は繰り返されてきました。後で見ると、捜査の過程に無理や矛盾が多々あったのがわかります。なぜ教訓が生かされないのでしょうか。

 そこが一番問題だと思っています。1980年代に相次いで死刑冤罪が再審無罪になった事件があり、「死刑4再審」と呼ばれています。この4つの事件について改めて調べてみると、今の冤罪と構図はまったく変わっていないことがわかりました。検察が証拠を隠す、捨てる、捏造する。あるいはジャンク・サイエンスと呼ばれるいい加減な科学判定で冤罪を塗り固める。

 死刑4再審の時、冤罪が続出した背景を徹底的に検証し、制度やシステムを変えるべきだったのに、弁護団もメディアも「無罪になってよかったね」で終わってしまった。大阪地検特捜部による証拠改ざん事件を受けて「検察の在り方検討会議」というものが作られましたけど、個人の道義的責任に帰着するような内容で、すごく生ぬるい。冤罪はヒューマンエラーではなく、システムエラーなんです。だからシステムを変えないとダメ。それを怠ってきたことが今の状況につながっていると思っています。冤罪を繰り返さないためには無罪を勝ち取って終わり、ではダメなのです。

ーー取り調べの可視化が進んでいると思っていましたが、実際はどうなんでしょうか。

 2016年の刑事訴訟法等の一部改正により、裁判員裁判対象事件と検察官独自捜査事件については取り調べの全面可視化が義務付けられました。格段の進歩だとは思います。

 ただ、たとえば大崎事件を今の可視化制度に当てはめてみた時、ちゃんと可視化されるかというと必ずしもそうではありません。

 まず、彼らが自白したのはすべて任意の取り調べの段階です。逮捕され、身柄拘束をされれば可視化の対象になりますが、実は取り調べは任意同行されるパトカーの中から始まっているのが実状です。その段階で自白をとり、いわば容疑が固まったところからビデオカメラが回るわけです。

 任意の段階で「自白」し、つまり容疑が固まった後からの録音録画だけが残っていると、かえって有罪心証をもたれてしまう危険性があります。

 また、可視化の対象となる事件が限定されているということは、対象にならない事件はどうなのかという問題もあります。

 通常、殺人事件はまず死体遺棄か、あるいは窃盗などの余罪で逮捕、勾留することが多いのですが、その段階では裁判員裁判の対象事件ではないので、可視化対象にはなりません。どんなふうに供述が取られたのかがわからないのです。

 さらに言えば、被害者の供述や近隣住民の目撃証言などで冤罪になっている事件が実は山のようにあります。しかし証言した人は被疑者ではないので可視化の対象になりません。どんなふうに尋問が進められたのか、わからないんです。

 つまり、取り調べの可視化が実現したといっても、実際には取りこぼされている部分がたくさんあるわけですね。すべての事件において、参考人も含めた可視化をしなければ、捜査の「闇のプロセス」はあきらかになりません。

メディアの罪と、読者や視聴者に求められる意識

ーー警察や検察が捜査段階の情報をメディアに流し、そのまま報道されている現状についてはどう思われますか?

 マスコミの罪はとても重いと考えています。今、大崎事件については鹿児島のメディアは冤罪を前提に報じています。でも事件当時の報道はひどかった。無責任な「証言」を鵜呑みにし、いかにも犯人だと思わせる報道をしました。

 被疑者も被害者もプライバシーをさらされ、人格的な部分が強調される。こうしたステレオタイプな報道が冤罪に加担している部分はあると言えます。

 捜査段階の情報をメディアにリークする警察や検察も大問題です。弁護人も会見すべきという意見もありますが、再審事件ならともかく、まだ真実は誰にもわからないという段階でべらべらしゃべることはできません。そのため捜査機関からの情報だけで報道が組み立てられていく。メディアにはそのおかしさを認識してほしいです。

ーー一方からの情報だけが入ってくる時、メディアはどう報道すべきでしょうか。

 表現の自由がありますから、外在的に規制するのは難しいと思います。社内にチェック機能をつくる、事件報道を定期的に見直すといったことをシステム化してほしいです。

ーー読者や視聴者として意識すべき点は?

 事件報道を鵜呑みにしないこと、そして「疑わしきは罰せず」の大原則を常に忘れないでほしい。冤罪となれば取り返しがつきません。

 「取り返しがつかない」には2つの意味があります。ひとつは無実の人に責めを負わせることで、その人の人生はもちろん、家族の人生にも取り返しのつかないダメージを与えてしまうことです。

 もうひとつは、真犯人を取り逃がしていること。これが意外に忘れられている。冤罪は「二重の不正義」なんです。だからこそ、最初の報道を鵜呑みにしないことがとても重要で、どんなに怪しく思えても「この人が犯人に違いない」と決めつけてはいけないんです。メディアも一般市民も。

証拠を独占し、抗告で再審開始を阻む検察

ーー現在、再審法の改正を目指して活動されていますね。現行の再審法の問題点は何でしょうか。

 たくさんありますが、大きいものは2つ。証拠が隠されてしまって真実がわからないという証拠開示の問題と、検察官による抗告でいつまでたっても再審が開かれないという問題です。

 まず証拠開示について。日本の刑事訴訟法は、戦前はドイツの法律を真似たものでした。簡単に言うと、裁判所と検察官が同じ立ち位置で被告人を罰する。裁判所の裁量で手続きを進めるというものでした。

 戦後、日本国憲法ができた時、被告人の権利を保障する「当事者主義」の刑事訴訟法となりました。被告人に検察官と同等の「当事者」という地位を与え、互いに証拠や証言という武器をもって戦い、裁判官がジャッジする。それが最も真相に近づけるという、欧米型の考え方です。

 当事者主義の「被告人に検察官と同等の地位を与える」という考え方は間違っていないと思います。ただ、有罪を立証する責任を検察官が負うことになったことで、検察官には「有罪イコール勝ち、無罪イコール負け」という認識が身についてしまいました。警察・検察が国費すなわち税金を使って地引網のようにガーッとさらった証拠のなかには無罪を思わせるものも含まれています。でも検察は、有罪が立証できる証拠だけを裁判所に提出するんです。有罪に偏った証拠だけを見る裁判所は「これはクロだ」と判断し、有罪判決をしてしまう。こうした構造ができあがってしまいました。

 戦前は、集めた証拠はそのまますべて裁判所に提出されていました。ですから証拠開示の問題はありませんでした。裁判所に提出された証拠は弁護人も閲覧や複写ができました。戦前の刑事訴訟法にも問題はありましたが、証拠の扱いに関してはむしろよかった。

 裁判員制度が導入された時、公判前整理手続きという新しい制度も導入され、検察が提出しない証拠もある程度開示されるようにはなりました。しかし大崎事件も含め、多くの冤罪事件は制度の導入前に起きていますから、今も無罪方向の証拠が捜査機関に埋もれている状態のままです。

 再審というのは、無罪を言い渡すべきあきらかな証拠を発見した時に開いてもらうことになっています。ですからまず弁護人が新証拠を携えて請求しないといけないわけですね。そうは言っても新証拠を発見するというのはなかなか大変です。そもそも無罪方向の証拠が警察・検察側にあるわけですから。「それを見せて」という話になるわけですよね。そして実際、裁判所が証拠開示の勧告を出し、隠されていた証拠が出てきた事件の多くで冤罪があきらかになりました。

 このように、冤罪が生まれる背景には警察・検察による恣意的な証拠隠しがあります。

 もうひとつは、検察官が再審開始決定に対して検察官が「不服申立(即時抗告・異議申立・特別抗告の総称)」を行うことで、再審そのものが始められないという問題です。

 再審制度は「二段構え」になっています。まず、裁判のやり直しをするかどうかを決める「再審請求」という手続き。そしてやり直しの裁判をすることが決まった後で、実際に裁判をやり直して有罪か無罪かを決める「再審公判」です。

 大崎事件の場合、これまで3度もやり直す(再審開始)決定が出たのに、その度に検察官が不服申立をしてきました。その結果、やり直しの裁判(再審公判)をするかどうかさえも何十年も決まらない。どう考えてもおかしな状況です。

 検察は再審公判で有罪の主張をすればいいだけのこと。単なる前さばきであるはずの再審請求で反射的に抗告するのはやめてほしい。もともと日本が倣っていた本家のドイツでは1964年に法改正して、検察官は再審開始決定に抗告できないようになりました。「やり直しの裁判で有罪・無罪をあきらかにしなさい」ということです。当然ですよね。

国民の「不断の監視」で信頼に足る司法を

ーーなぜ日本ではそうならないのでしょうか。

 検察官は「自分たちがもっとも事件を知り尽くしている」と考えています。「自分たちがきちんと証拠を見たうえで有罪だと判断し起訴した。裁判所も有罪を認めた。だから間違っているはずがないと」というのが検察官の考え方です。それを再審でひっくり返すのは「三審制で確定させるという司法制度を根幹から揺るがすことであり、法的安定性を損なう」と主張しています。

 でも人間ですから間違えることもあります。実際、わかっているだけで明らかな冤罪がいくつもあったわけです。間違いが起きた時、それを正さずに確定判決を守り切るのと、「間違えました。これからは気をつけます。しっかり救済もします」というのと、どちらが国民の司法に対する信頼を得られるのか。答えははっきりしていますよね。

 けれど今の法律では再審での証拠開示手続きが定められていないために、証拠が開示されるかどうかは裁判官のやる気次第になってしまっている上、やっと裁判所が再審開始決定を出しても検察官が不服申立を繰り返すことを止められません。誤った裁判を再審でやり直すためにも、大変な努力でこぎつけた再審を進めるためにも、再審法の改正は欠かせません。

ーー「裁判所は市民の言い分にきちんと耳を傾け、公正な判断をしてくれるはず」という信頼感を抱いている人は少なくないと思います。裁判官の「やる気次第」というのは驚きでした。

 裁判官の「当たり外れ」で冤罪が晴れたり晴れなかったりしていいわけはありません。でも現実はそうなっているということを知って欲しくて本(『大崎事件と私〜アヤ子と祐美の40年』LABO、2021)を書きました。

 最近では台湾や韓国のほうが刑事司法改革が進んでいます。理由を聞くと、彼らは基本的に権力を信用していないんですよね。いろんな歴史がありましたから、検察や裁判所をはじめ、権力に対して不断の監視を怠らないという国民の姿勢があるんです。だから不正や過ちがあれば世論が盛り上がり、法改正へとつながっていく。

 日本では多くの人がなんとなく裁判所や検察を信用してしまっている。現実を知ると、「日本の裁判がこんなにひどいことになっているとは知りませんでした」とみんな口を揃えて言います。まずは現実を知ってほしいです。

ーー弁護人として鴨志田さんの根底にある思いとは何でしょうか。

 私は子育てを経て40歳で司法試験に合格し、42歳で弁護士になりました。ほかの人に比べて活動できる時間は短いわけです。そんな自分がこの事件と出会ったのは、与えられた使命ではないかと思っています。

 また、多くの事件に関わるなかで、女性が男性から暴力を受けたり尊厳を傷つけられたりする状況がたくさんあることを知りました。アヤ子さんも酔った夫から暴力を受けたこともあったようです。今の社会では、女性が弱い立場に追い込まれやすいのも事実。そういう意味では「女性の冤罪被害者の女性弁護人」であることも大切にしたいです。

 アヤ子さんは今年で94歳になりました。一貫して無実を訴え続けて42年です。今度こそ、再審の開始を、そして再審法の改正を。そのためにもぜひ大崎事件に関心をもってください。

ーーありがとうございました。

(2021年5月インタビュー 取材・構成/社納葉子)

 

●『大崎事件と私〜アヤ子と祐美の40年』
2,970円 LABO

大崎事件と私~アヤ子と祐美の40年