「同化」から「共生」へ![]() 李さんたちの地道で着実な活動は、1974年に社会福祉法人青丘社として認可を受けるという形でひとつの実を結んだ。さらに、1982年には青丘社の要望により桜本地区に子どものためのコミュニティスペース「子ども文化センター」と日本人と在日韓国・朝鮮人とがふれあい、交流できる場とを兼ねた「ふれあい館」を建設し、その運営を市から委託されることになる。 そして「要求」から「参加」へ地域に根ざした活動をする一方で、李さんたちは法律上での民族差別撤廃に向けての運動も進めていく。1974年、在日外国人には支給されていなかった児童手当を要求することから始まり、就学案内の要求、要保護世帯の奨学金制度問題などに取り組んだ。
代表者になる条件は、外国人登録を行っている満18歳以上で、市内に1年以上居住し、会議に必要な日本語能力があることで、推薦と公募者のなかから国別の構成比率によって選任される。一定の日本語能力が認められているとはいえ、言葉に対する理解や表現力にはやはりばらつきがある。また、何十年と日本に住み、あるいは日本で生まれ育った人と、ニューカマーと呼ばれる滞日歴が数年の人たちとの間に対話やコンセンサスが成り立つのかを危惧する声もある。しかしボランテイィア通訳の同席が認められたり、すべての資料や議事録にルビが付くなどきめ細かな対応と、共通の問題意識の上に成り立つ連帯感や共感によって、コミュニケーション不全は今のところ起きていない。 「共生」が日本の社会を豊かにする「会議」は2002年度で第4期を迎えた。李さんは1期と2期の委員長に選ばれ、この新しい取試みの基礎を築くのに大きな役割を果たした。6年の間にはさまざまな提言が行われ、行政の現場に生かされてきた。なかでも代表的なもののひとつが、入居差別を禁止する住宅条例の制定である。川崎市住宅基本条例に在日外国人の入居保証と居住継続システムからなる居住支援制度が設けられ、協力する意思を表したシンボルマークを店頭に掲示する不動産業者は100店舗を超えた。「共に生きていこう」という思いが端的に表れた事例である。 代表者会議には3つのキーワードがある。「要求から参加へ」「個別と普遍」(個別の違いの中から誰をも納得させる普遍的なものを探す)、「相互理解と共生」(外国人を始めとするマイノリティへの理解)。言葉にすれば美しく、誰もが納得する理想である。しかし理想を理想で終わらせないためには、地道で粘り強い活動が必要だ。李さんたちは草の根から始まり、行政を変えながら国に向かってメッセージを発するという市民運動のモデルを実現してきた。その根底には「同化ではなく共生を」という切実な思いが常にあったということを忘れてはならない。 |