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2020/10/22
今、水俣病という「事件」と向き合うために 永野三智さん


今、水俣病という「事件」と向き合うために 永野三智さん

2018年9月に出版された1冊の本がある。『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』。著者は水俣病センター相思社の職員である永野三智さんだ。
 水俣病もしくは水俣病ではないかと思われる症状を抱え、相思社を訪ねてきた人の言葉に永野さんが耳を傾け、書きとめた。行政や医師の対応や社会の状況も書かれている。何よりも永野さん自身が訪ねてくる人と向き合い、自らを問う姿勢に、読み手は心を揺さぶられる。発刊以来、じわじわと読まれ、1年で3刷となった。
 政府が水俣病を公害認定した1968年から50年以上が経過した。永野さんはどんな心もちで訪ねてくる人の言葉を聴いたのだろう。

 

解決しようのないことを必死で聞くことの意味

ーー『みな、やっとの思いで坂をのぼる』を読んでいると、訪ねてこられる方たちは必ずしも「相談」をされるわけではありませんね。「今まで誰にも言えなかった」と言いながら、初めて会った永野さんに話される方がたくさんおられます。永野さんはどんな心もちで聞かれるのでしょうか。

 本には「相談」と書いてしまっているんですけど、本来、相談の先には解決があるものじゃないですか。でも相思社での「相談」には、実際の「解決」はありません。体の症状やチッソや行政、家族への気持ち、自分自身の思い・・・私が何かを言うことでは何も解決しないことが圧倒的に多いんです。

 そのことが今でも苦しいです。でも「自分が何か言うことでは何も解決しない」ということを受け入れようと思い始めました。そう思えるようになったということが私のなかでの変化だと思います。

 目の前の人が話す、解決しようのない話を必死で聞く。「聞きたい」と思って聞こうとする。それが私にできるせめてものことだし、それが大事だと思っています。それを「文章」という形にすることが私なりの相手へのお返事であり、話を聞いた自分への落とし前です。また、文章にすることは、目の前のことを少し突き放してみることでもあり、自分へのケアの意味合いもあります。

 みなさん、心のなかで本当は何を思っていらっしゃるのかはわかりません。「こういうことかな?」と想像するのは大事だけど、でも思っているけど口に出さないことってたくさんあると思うんですよね。

 「私がちゃんとあなたの話を聞きました。そしてあなたの話がとても大切だと思うから、形にします」という気持ちです。

 先日お話した方は、水俣病の認定申請をされていたんですが、少し前に、棄却されました。今日改めて電話があって、「棄却と知らされた時、半分ほっとしたんです。でも半分は悔しくて」と話してくださいました。「ほっとした」という言葉に、どれほどの苦しみや葛藤や経験がつまっているか。「ああ、この人はさんざん苦しめられながら今までこられたんだなあ。すごい人だなあ」と思いました。

ーー解決しようのない話を聞き続けるのは辛くはないですか。

 話を聞くということは痛みをともないます。例えば出身差別の問題に触れるときは、自分の体験を思い出すし、目の前の"相手"の水俣病患者に対する加害性について問うときは、自分がした患者への差別を思い出します。

 相談にしても、相思社に入った2008年頃は、相手の話をちゃんと分かっていないのに、話を聞いて「こうしたらいいんじゃないですか」と言ってしまったり、「ああ、わかります」と簡単に言ってしまって、「おまえみたいな若いのに何がわかるんだ」と怒鳴られて慌てて謝ったりしていました。

 ほんとにいっぱい地雷を踏んで、人を傷つけてしまいました。傷つけさせてもらってほんとに申し訳ないと思います。傷つけるというのはいけないことなんだけれども、傷つけないとわからないことがいっぱいあって。そういうやり取りの中で気づかせてもらって、今でもおつきあいさせてもらっている方たちがたくさんいます。とてもありがたい話です。

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穏やかな不知火海。対岸には天草諸島が見える。
遠浅のこの海にチッソの工場廃液が垂れ流され、
含まれていた有機水銀が魚介類を汚染、水俣病が発生した

差別した自分、された自分。「なかったこと」にはしない、させない。

 本の「まえがき」に書かれていた永野さんの子ども時代のエピソードが強く印象に残った。小学生の頃、近所に住む胎児性水俣病の「お姉さん」の体がくねるのを笑い、真似をする同級生たちがいた。「お前もやれ」と言われた永野さんは逡巡した末に真似る。永野さんの父と同世代で、永野さんをかわいがっていたお姉さんは、自分を真似る永野さんの姿を見て泣いた。その瞬間、自分のしたことが「差別」だと悟った。
 そのことを永野さんはずっと忘れず、しかし向き合うこともできずに大人になった。子どもを産み、親子で国内外を旅をしながら暮らした時期もある。旅の生活に疲れて帰った水俣で、病院勤めの後、相思社の職員となった。お姉さんに謝ることができたのは、その頃だった。

 

 水俣に帰って少しした頃、娘の小学校での授業で水俣病の授業があるというので、聞きに行ったんです。そしたら講師がそのお姉さんでした。もう、私の頭は小学生の頃に戻っていて、真似をしたことでいっぱいになりました。お姉さんの授業はほとんど頭に入ってこなかった。

 授業が終わり、子どもたちが会場を出ようとした時、とっさに子どもたちを引き止めました。(今ここで謝らないと、もう機会はない)と思ったんです。

 そして、「私はみんなくらいの年の頃、お姉さんの真似をしました」と言い、経緯を説明しようとするんですけど、それ以上言葉にならなくて。「ごめんなさい」と謝ったら、お姉さんも顔をくしゃくしゃにして泣き出して、「いいんよ、いいんよ」って。

 でも「許された」とは思えなくて。というより、許されたと思っちゃだめだと思っているんです。お姉さんにしたことは、取り返しのつかないことですから。お姉さんが泣き出した姿を見て、お姉さんの心についた傷は二度と癒えないのだと改めて思いました。この許されないことを、わたしの人生のなかでも、水俣病と関わる中でも、胸に刺したまま大切に抱えていこうと思っています。

 本を読んでくれた方のなかには、「自分にも同じような経験がある」と話してくれる人がけっこういます。たぶん誰もが同じような経験をしているんだろうと思います。私のなかでも加害者としてのしこりというか、傷と言ってはいけないと思うけど、そういうものが残っていて、35歳になった今でも生々しく胸の奥にあります。

 ただ、水俣を離れている頃は、見ないように蓋をしてしまっていました。無意識に、必死だったと思います。ところが水俣に帰ったことで、その蓋が開いてしまった。勝手な言い分かもしれませんが、加害者の私には、思ってもみないことでした。ただ、その後の私の人生において蓋があいたことは本当に良かったと思っています。

 一方で、差別された経験も書かれている。成長するにつれ、水俣や水俣病への偏見、差別のまなざしを知り、出身を隠して「鹿児島生まれ」と嘘をついていた時期もあったという。親子で旅に出たのは、子どもを「水俣出身」にしたくないという思いもあった。
 水俣病そのものに対する差別や偏見はもちろん、「水俣」という名前への忌避意識も強い。今もなお、水俣の子どもたちに対して「水俣病はうつる」「水銀飲んで死ね」「汚い」「触るな」などの差別発言がある。

 

 水俣出身ということを隠しているときは、すこしでも楽になりたいとおもっていました。でもあるきっかけで、水俣病の裁判に行くことになり、そこで同郷者と再開して、隠さなくて良いことでとても楽になったんです。何かを隠すというのは私にとっては負担でした。それに、この行為は患者を傷つけていると思いました。

 いまでも出身を隠す若者の存在を知ると、その若者が自分に見えます。この間Twitterで、「水俣病」を検索したら、「自分は水俣出身だ」と投稿した人がいて、その知り合いが「え、Aさんって水俣出身なんですね。実は自分も水俣出身で」という話から差別を受けた話に発展し、「Aさんが胸を張るなら自分も誇りをもっていきます!」という終わり方をしていて、「私も水俣出身で!」って、割って入りたくなりました。割って入ったらよかったな。

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1968年、政府は水俣病を公害認定。
チッソが廃液を垂れ流し始めてから32年が経っていた。
そして症状を抱える人や家族は、今も苦しみを強いられている

大切な人を守るために寝た子を起こし続ける

ーー水俣という土地、そこで暮らす市民に対する差別を避けたいと「水俣病」という病名を変更しようという動きが1970年代からありますね。

1971年の病名変更運動は、チッソに補償を求めた川本輝夫さんたち「自主交渉派」の人々のチッソ水俣工場前への座り込みに端を発しています。この当時、水俣市は「水俣市のイメージだけでなく、市民に対する差別問題にまで発展している」として市報で署名への協力を呼び掛け、市長も「良識ある市民運動」と活動を後押ししました。そういえば、水俣で「市民運動」と言えば、患者運動に対する反対運動なんですよね。私は「原発反対」とか「基地反対」「産廃処分場反対」というのが市民運動のイメージなので、ちょっと違和感がありますが。

 さて、署名活動の結果、市内の有権者の内、72パーセントが賛同の署名をしています。この運動の中心メンバーがみなチッソに精神的・経済的に依存していたこともあり、患者はこの運動を、自分たちに対する批判と受け取り、対立はさらに悪化していきます。この時期に対話が生まれ、お互いの困難を理解しあえていれば状況はまったく違っていたと思いますが、残念ながらそうはなりませんでした。

1973年、水俣病第一次訴訟の判決後、この運動は収束しましたが、昨年「メチル水銀中毒症へ病名改正を求める!!水俣市民の会」が結成されました。リーダーは、かつて病名変更運動を支えた水俣市議のご子息です。「この病名によって大多数の市民が苦しめられてきた」ということがその理由です。

 例えば、水俣病は、単なる病気ではなく、政治的な問題、社会的な問題を多くはらんだ事件です。このままではまた対立になってしまうと思うのですが、お互いにこの事件の原点を再確認することで、同じことを繰り返さない努力ができるはず、と考えています。

 「病名変更」は寝た子を起こすな、ということだと思いますが、それで本当に水俣出身者や水俣病患者への差別が解消されるのか。私は大切な人を守るために、寝た子を起こし続けたいと思っています。水俣のこと、水俣病のことを知ってもらうことで、水俣病への差別を減らすことができると思っています。せっかく水俣に生まれたのだから。

 相思社では患者さんのお位牌をいくつもお預かりしています。なかには昭和22年に亡くなった方もおられるんですよね。原因も知らされないまま、悶え苦しみながら亡くなった方たちがいる。大きな過ちを、ここに残しておきたいと思うんです。もしもそのことが消されようとすることがあれば、怒りをもっていい。でもたいていの場合、私たちは怒らないですね。私たちは本当に耐え抜くということに慣れさせられてきてしまった。でもそうすると、加害した側は「自分たちは許されたんだ」と思ってしまう。見なくて済む人たちは、「終わったんだ」と思ってしまう。加害した側に、見なくて済む人たちに、伝えることをつづけたい。そしていつか、加害した人が、見なくて済む人たちが、語って、伝えてくれたらと思います。

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1974年、全国からの寄付を元に「相思社水俣病センター」が設立された。
隣接する「水俣病歴史考証館」では資料の展示や資料集の収集、貸出などをおこなっている

加害者も含めて、誰もが水俣病を語れるように

ーー私は水俣病を教科書で教わりました。つい最近まで「歴史のひとこま」のように思ってきたんです。自分に連なる問題だと考えることがしんどかったのかもしれません。今は目の前に突きつけられている気がします。「これをどうするんだ」と。
 確かに水俣病は「事件」ですね。ただ、あまりにも大きな事件で、今度はどこからどうやって関わればいいのかわかりません。1983年生まれの永野さんは水俣で生まれ育ち、身近に患者さんもたくさんおられますが、ご自身が生まれる前に事件が起き、多くの闘いがありました。水俣病も事件も終わりは見えませんが、いわば「後から来た」立場として、途方に暮れることはありませんか?

 自分のコンプレックスとして、視野が狭い、小さいところしか見えない、小さいところを見ようとする癖があります。相思社に入った時から周りの人から「もっと広い視野をもて」「物事を大きくとらえろ」と言われてきました。

 「地域づくり」と言った時の私の世界はほんとに小さい。水俣市のなかでも自分が生まれ育った袋、さらに小さく袋のなかの出月という地域を見るようにしか物事を見られないし、そういうことが好きなんです。いまだにそのレベルで仕事をしています。

 どんな本も、読んだ人が、本に出てくる誰かの経験と自分を重ねることがあると思います。そしてその時、自分はどうふるまったのかを思い出す。胎児性水俣病のお姉さんと私の話も、もしかすると、ほかの人にもある経験かもしれません。ほかの人にとっては違う出来事だったかもしれないけど、私の懺悔にも似た「似たような経験」から、誰かが自分の罪をひらいて見つめるきっかけになったらと思います。

 水俣では私が生まれる前に、多くの闘いがありました。私はそれを知りません。知らないけれども、その闘いの後遺症に苦しんだ人のことを見てきました。それは初期に水俣病となり差別を受けた人であったり、患者を差別しながら、水俣を出れば自らが差別された人であったり。私はリアルタイムで知らないからこそ、傷がない、または浅い。知らないからこそ、できることがあると思っています。それが、罪を問うということです。

 私の暮らしている地域は水俣病の認定・未認定や国から認められない「未認定患者」の中でも被害者手帳を持つ・持たない、今も給料良しで憧れの的の原因企業「チッソ」で働く・働かない、それぞれの選択によってさまざまな溝が生まれています。大きな波に翻弄される小さな私たちです。上の世代よりはその溝に左右されないように生きることができ、冷静でいられる私たち若い世代。たとえば今被害を名乗り出る患者の中には、かつて患者を差別した側の人たちの存在がありますが、その人たちが相思社にやってきたときに、「あの時あなたは何をしたのですか」と尋ねてみます。そうすると少しだけ、自分がしてきた差別や自分の患者への視点が語られる。その積み重ねで、水俣病から解放されてほしいと思っています。加害者を含む誰もが水俣病を語れるようになることで、初めて水俣病から解放され、二度と水俣病を繰り返さない社会が生まれるのだと思うのです。

ーー「水俣病」と言った時、誰もが同じ認識をもっていると決めつけて話を進めるのは危ないですね。1990年代からは「対立から対話へ」の合言葉とともに「もやい直し」(もやいとは、台風など海が荒れた時に船と船をつなぎとめる綱)が言われるようになりました。

 私は「もやい直し」には2つあると思っています。ひとつは、人間が自然界に対して犯してしまった環境破壊という罪に対して、誠意をもって謝罪し、自然界との関係を取り戻していくこと。

 もうひとつは、「患者と市民の絆を取り戻そう」というもの。

 前者は、自然界はもちろん、人間同士の関係においても重要なことだと思います。加害者が被害者に対し、誠意をもって謝罪する。でも言葉というのは本当に怖くて、誰がどう使うかによって言葉が生まれた時とは違う意味になってしまいます。たとえば加害者の側が「患者と市民の絆を取り戻す」と言った時、その言葉が「水に流そう」と聞こえる一部の被害者がいることを忘れたくありません。そもそもなぜ絆が切れたのか、取り戻すには何が必要なのかという議論や検証が必要だと感じます。それを抜きにしての「もやい直し」はあり得ません。

ーー本で紹介されている方たちは、生活への影響を考えて全員匿名にされたんですよね。すると「自分のことを書いてくれた」という方がいた。実際にはその方の話ではないのに・・・。

 はい。その人のことを書いたわけではないのに「私のこと、こげんして残してくれてありがとうね」と言われた時は驚きました。この方はもしかしたら「自分のことを残してほしい」と思われていたのかもしれないと思いました。勝手な想像です。でもこの人の話をもっと聞きたいと思いました。

 話を聞く時、私には目の前にいる人しか見えません。話されることがどこかと重なるとか、誰かと同じというのはまったく考えてなくて。だから運動としてつないでいくことができていないと思います。でもやっぱり私は私の話の聞き方でしかできません。聞かせてもらった話を文章や本という形にして、水俣病との接点を感じ取る人が増えたらうれしいです。

ーーありがとうございました。

 水俣病に関する本は数多く出版されている。水俣病を知るのにふさわしい本はほかにあるかもしれない。しかし永野さんが聴き、「形」にした文章には、何十年も誰にも話せなかった思い、悲しみ、やるせなさ、怒りがこもっている。その人が生きてきた時間が、ある時は生き生きと、ある時は痛切に伝わってくる。
 そして問題や過ちが起きた(起こした)時には、まず被害を受けた人の言葉に誠実に耳を傾けること。謝罪も補償も、心身の回復もそこからしか始まらないことを教えてくれる。  
 水俣病事件はまだ終わっていない。

(2019年9月インタビュー 取材・構成/社納葉子)

 

●相思社 公式サイト

●『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』
1,800円+税 ころから出版

みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま

 

 

 

 

 

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