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特集



「同対審答申」50年 先送りされた差別禁止法 / 近畿大学教授 奥田 均さん

2015/10/22


国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議では毎年様々な切り口で人権をテーマにした「プレ講座」を開講している。2015年度のテーマは「戦後70年と人権」。第3回の講座の様子を報告する。

同和対策審議会答申(同対審答申)が提出されてから今年で50年を迎える。部落差別の存在を認め、国や行政の責任を明確にした画期的な内容である答申を「今こそあらためて学んでほしい」と奥田さんは訴えます。同対審答申の意義とそこにこめられたメッセージを読み解いていただきました。

人権の原理原則が凝縮して盛り込まれた

 同対審答申は1965年8月11日、時の総理大臣、佐藤栄作さんに提出されました。今年で50年になります。同和対策審議会は部落問題を解決していくための方策を4年あまり審議しました。この答申の画期的なところは、部落問題を通じて戦後民主主義や人権の原理原則が凝縮して盛り込まれているところです。

 前文では「同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法に保障された基本的人権に関わる課題である」とし、その解決は国の責務であると明言しました。部落問題解決に対する審議会の強い決意がこめられています。

 第一部には同和問題に対する認識、本質、概観が書かれています。部落問題に限らず、差別や人権をどうとらえたらいいのかという基本的な認識、枠組みが示されています。答申を2カ所だけ読むとするなら、前文と第一部の「本質」を読んでほしい。それほど重要な箇所です。

 第二部は同和対策の経過です。実は日本政府は戦前にも融和事業という形でさまざまな対策を打っています。どんな取り組みがあったのか、それでもなぜ解決しなかったのか。同和対策の経過が行政という視点で縷々展開されています。
 第三部は「環境改善」「社会福祉」「産業・職業」「教育問題」「人権問題」の5つのジャンルに分けて具体策が書かれています。
 結語では答申を具体的な施策に高めていくための方策が書かれています。法律をつくる、同和対策の協議会をつくる、総合計画や年次計画をつくるなど抽象的な提案で終わらせないための具体策が書かれており、答申と行政施策との蝶番のような役割を果たしています。

答申の誕生を後押しした、差別への強い怒り

 同対審答申後、障害者問題やハンセン病問題、女性問題などさまざまな人権課題についても取り組みが始まります。その種となったのが基本的人権の具体化を示した同対審答申でした。しかしひとつの疑問があります。日本国憲法と同対審答申には約20年のタイムラグがあることです。基本的人権は日本国憲法に書かれた3つの柱のひとつです。しかし具体的な取り組みを喚起した同対審答申はなぜ1965年まで出なかったのでしょうか。逆にいえば、20年の空白を埋めたのは何だったのでしょうか。

 私は4つの要素があると考えています。まず決定的なパワーとなったのが部落解放運動の再建です。1946年2月、京都で部落解放全国委員会が結成されました。敗戦からまだ半年。社会全体が食うや食わずのなかで、差別撤廃を訴える荊冠旗が掲げられたのです。

 その情熱の背景にあったのは戦時の軍隊においてさえ強烈だった部落差別でした。1975年、全国の被差別部落の所在地を書き連ねたリストを多くの企業が購入していたことが発覚します。その部落地名総鑑を最初に作成した男性は戦時中の経験から思いついたと述べています。岡山の部隊で人事係の助手をしていた男性は、名簿のなかで部落出身者に対して特別な印がつけられているのを見ていました。生きるか死ぬかという戦争のさなかにもきつい部落差別があるのを体験したわけです。さらに戦後、興信所を開業すると調査依頼のうちほとんどが部落出身かどうかを調べる身元調査だったそうです。そうした経験を通じて一覧表をつくれば売れると考えたと述べています。加害者側からみた差別の実態ですが、こんな現実に対する怒りや「差別をなくせ」という強い思いが部落解放全国委員会の結成につながりました。

全国的に共感と連帯の輪が広まった

 次に差別のとらえかたの発展です。戦前の全国水平社は就職や結婚の際の排除をはじめとする差別事件と人々の意識を糾弾闘争という形で運動を展開しました。部落解放全国委員会はさらに生活実態における差別をとりあげました。劣悪な住環境、衛生状態、不安定な就労実態そのものが差別であると明確に指摘したのです。そしてその実態を放置してきた行政の責任を追及しました。差別行政糾弾闘争です。これが全国的に広がり、部落解放運動に部落の人々が結集していきます。そして1955年、部落解放全国委員会は部落解放同盟へと大衆運動団体らしい名称となり、今日にいたります。

 行政闘争が進むなかで、最終的には国の責任追及へと発展していきました。学校現場でも先生たちの取り組みが始まり、1953年には全国部落教育研究協議会が設立されました。長い間部落差別を無視してきたマスコミもついに真正面から部落問題をとらえるようになりました。1956年12月、朝日新聞が「部落300万人の訴え」という連載記事を書いています。研究者、文化人と呼ばれる人のなかにも共感の輪が広がり、ついに1958年1月、部落解放国策樹立要請全国会議が東京で開催されました。西は鹿児島から、東は長野から、東京を目指して全国部落大行進がおこなわれ、中央政府は部落問題の解決に取り組まざるを得ない状況に追い込まれます。そんななかで同和対策審議会の設置が決まりました。

 しかし決してすんなりと進んだわけではありません。面白く思わない人々による抵抗を受けながら、多くの人の努力と強い思いによって同対審答申が提出されたのでした。

振り返るのではなく、今に生かす学びと実践を

 答申のなかでも特にすばらしい箇所を1カ所挙げるとすれば部落差別の存在を認知した部分です。1965年といえば前年に新幹線が開通し東京オリンピックが開催され、日本中が高度経済成長に湧いていました。そんな時に答申は第一部の「同和問題の認識」において、「世間の一部の人々は、同和問題は過去の問題であって、今日の民主化、近代化が進んだわが国においてはもはや問題は存在しないと考えている。けれども、この問題の存在は、主観を超えた客観的事実に基づくものである」と断言したのです。差別が存在するからこそ「では何をするか」という話になります。そのことをはっきりさせた答申が歴史的に果たした役割は大きなものだと思います。

 さらに答申は部落問題の解決には3つの法律が必要であると明示しました。それは同和対策事業に関わる「特別措置法」と差別禁止法、人権侵害救済法です。しかし残念なことに差別に対する規制と救済を盛り込んだ人権擁護法案は採決直前までいきながらも国会の解散という憂き目に遭い、2度にわたって廃案となり今日にいたっています。差別禁止法と人権侵害救済法が未整備という結果、ヘイトスピーチやインターネットへの差別的な書き込みが放置されるという現状があります。

 同対審答申は50年前に書かれた文章であり、社会環境も時代の特徴も今とは異なっています。しかしそれでも色褪せないのは、憲法14条を国民の不断の努力によって実現していく、実践の課題にしていくという強い決意があるからです。そこには部落問題にかぎらず、差別や人権の問題を具体化していくための基礎基本がしっかりと塗り込められています。そしてひとつひとつが今日に通じる内容であります。だからこそ、同対審答申を振り返るだけでなく、今に生かすという形でぜひ再学習していただきたいと思います。

(講演日:2015/08/18)


●国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議
同会議では2002年から様々な人権課題をテーマに「プレ講座」を開講している。今年度のテーマは「戦後70年と人権」。「ヘイトスピーチと法規制」「性暴力、セクシュアルハラスメント」「同対審答申50年」「基地問題と沖縄差別」「護憲・改憲の前に、まず知憲」をテーマに5回連続で講座がひらかれた。