ふらっと 人権情報ネットワーク

特集



偏見・差別と社会心理学 公正世界信念とは 近畿大学 村山綾さん

2023/01/06


国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議では毎年様々な切り口で人権をテーマにした「プレ講座」を開講している。2022年度のテーマは「マイノリティに対する差別と偏見」。第1講は近畿大学国際学部准教授の村山綾さんに「偏見・差別と社会心理学 公正世界信念とは」をテーマに講演していただいた。その様子を報告する。


公正世界信念とは 近畿大学准教授 村山綾さん


社会心理学という「メガネ」で人の心理をひもとく


 私は社会心理学を専門としています。学問とは、その分野のメガネをかけて世界を眺めることとも捉えられます。そういう意味で言うと、社会心理学は、環境(状況)の力に注目し、どのような状況で、人がどのような選好や判断をしやすいのかということについて、一般的な傾向を明らかにするためのメガネ(学問)です。

 私は、これまで専門家や非専門家の円滑なコミュニケーションを促進する行動などについて研究してきました。これは裁判員制度の評議を想定したものです。2009年、裁判員制度が日本の司法に導入されました。司法の専門家である裁判官3名と、非専門家である一般市民6名が集められ、殺人などの重大な刑事事件についての有罪無罪及び量刑を判断するという仕組みです。裁判官は専門家チームとして一緒に動いている人たちである一方、一般市民の人たちは職業などの属性も違えば、お互いにこれまで一切面識がありません。また、評議は非公開です。このような集団構成や実情は学術的に扱いが難しくもあります。

 そこでまずは犯罪の被害者、加害者に対して一般市民がどう反応するのか。すなわち裁判員裁判の枠組みを超えて、刑事事件に対する一般市民の反応を研究することにしました。

 なかでも特に強い関心を持ったのが「被害者非難」です。典型的なものが、性犯罪に遭った被害者に対して、「肌を見せるような服装をしていたあなたも悪い」「なぜ2人きりで飲みに行ったのか」など、責めるような発言です。犯罪が起きた時、なぜ私たちは被害者を責めてしまうのか。そこにどういった心理過程があるのか。これが私の研究テーマになりました。

 こうした研究を進めてきた中で起きたのが、新型コロナ感染禍における、感染者や医療従事者に対する偏見や差別を中心とした、人と人とのコミュニケーションの問題です。

 手洗い行動に関する家庭内での認識の差といったコミュニケーションの問題もありました。それまで知らなかった、相手の意識や特性、この場合は衛生意識ですが、新型コロナという環境変数が浮き彫りにした一例です。また、新聞等で大きく報道された「自粛警察」は日本独特の問題のように思います。たとえば休業要請に応じないパチンコ店に石を投げに行く。パチンコ店での感染リスクが高いと考えるのであれば、近寄らないのが合理的ですが、あえてそこへ行って攻撃する人たちがいたということです。

 世界の国々を見ても、その国がもともと抱えていた問題が浮き彫りになっているように思います。アメリカではエッセンシャルワーカーと人種の問題がありました。エッセンシャルワークには黒人やヒスパニック系の人たちが従事することが多く、そうした人たちの感染リスクや死亡率が高いという問題です。他にも、ワクチンに対する考え方の違いによる社会的な分断や、アジア系住民へのヘイトクライムなどが起こりました。

 こうした問題が生じる原因について、社会心理学の視点から整理することができます。

 社会心理学では1960年代から差別と偏見の研究がされてきました。今もよく「差別や偏見をなくそう」というフレーズを見聞きします。この2つの言葉はしばしばセットで使われますが、定義は違うのをご存知でしょうか。他の分野では違う定義があるかもしれませんが、社会心理学においては「差別」と「偏見」は異なる概念であり、なおかつ順番があるというのが大きな特徴です。簡単にいうと、「差別」の手前に「偏見」があり、さらに手前に「ステレオタイプ」があります。

 典型的なステレオタイプの例として血液型ステレオタイプがあります。たとえば「A型の人は几帳面、O型の人はおおらか」などと言われますが、血液型で人の行動を判断できるというエビデンスはありません。しかし誰かの血液型がA型だと聞くと、「細かいことを気にする人なのかな」という印象をもつ人がいるのではないでしょうか。

 偏見とは、このステレオタイプに好き嫌いなどの感情が含まれたものです。若者を例に挙げると、若者は「活発、友人と集まって活動する」など元気いっぱいなイメージを抱いている人は多いかもしれません。これはステレオタイプです。若者にも寡黙な人や個人で活動するのを好む人もいます。

 そこに「ルールを守らない、騒がしい」などといったネガティブな感情が伴うと、偏見になります。この次に差別がきます。たとえば「騒がしいから若者にはこの物件を貸さない」など、具体的な選択や意思決定、明確な行動を伴うのが差別です。

 偏見も差別もネガティブなイメージがあると思いますが、偏見にはポジティブなものも含まれます。たとえば「女性は家庭的で気が効く」というのはポジティブな偏見です。

 偏見はネガティブなものが注目されがちですが、女性、男性、公務員、政治家、などのカテゴリーに基づく、根拠のない決めつけは褒めたり認めたりしているような表現であっても「偏見」です。そして偏見に基づいて誰かが利益や不利益を得たりするような行動が「差別」です。ステレオタイプと偏見は私たちの頭の中で起こっていることですが、差別は行動として外に表れるもの。これが大きな違いです。

公正世界信念の概念とネガティブな側面とは


 これまでお話ししてきたように、私たちは会ったこともない人たちに対して、さまざまな印象(ステレオタイプ)を抱くことができます。どうしてそんなことができるのかというと、これまでの経験からです。たとえば「髪が黒く、スーツを着た男性」と「茶髪でラフな格好の男性」という2種類のイラストがあるとします。「どちらの男性が能力が高くて温厚だと思いますか?」と質問すると、圧倒的多数の人が黒髪でスーツの男性を選びます。それぞれに「こういう人の能力が高かった」「こういう人が優しかった」という経験があり、判断されたと考えられます。

 ステレオタイプに基づく判断自体は、一概に悪いとは言えません。入ってくる情報すべてについて、いちいち精査して時間をかけて判断していては大変です。ある程度単純化して次々に効率的に処理する必要がありますし、人の認知機能が高いからこそできることでもあります。

 「女性は家庭的で気が利く」といった考えを温情主義的ステレオタイプ(または偏見)と呼ぶことがあります。肯定的な感情を伴うので抵抗感を得にくいのが特徴で、ステレオタイプ(または偏見)だと指摘すると「自分の母親(または妻)は家庭的で気が利くが、そのように思うとなぜだめなのか」と、反論する人がいます。ここで重要なのは、社会心理学では個別の関係性を否定しているわけではなく、「女性」というカテゴリーで判断してしまうことを問題としています。

 ステレオタイプや偏見は、たとえ肯定的な感情を伴ったものであっても、ある集団間の関係性を反映し、維持する機能を持っています。「女性は家庭的で気が利く」という考えは、男性が社会経済的に優位に立ち、女性が男性の補佐的役割を担うという伝統的な性役割を肯定したり、維持し続けたりすることにつながる可能性があります。女性、男性といったカテゴリーによる判断ではなく、目の前にいる「個人」に対して判断することが重要です。

 ここまでコロナ禍で起きた差別、一般的な差別と偏見について話してきました。ここで2020629日付読売新聞に掲載された記事をご紹介します。コロナ感染は自業自得だと考える人が日本では11%、アメリカは1%、イギリスは1.49%だったというものです。日本は「コロナ感染は自業自得だ」と考える人が欧米の10倍ですが、それでも9割の人が自業自得だとは考えていないということは押さえておいてください。ただ、ほかの国々と比べると「自業自得だ」と考える人の割合が高いのは確かです。

 なぜ日本には自業自得と考える人が多いのでしょう。公正世界信念という社会心理学の概念から読み解いていきたいと思います。アメリカの社会心理学者ラーナーが1980年に提唱した公正世界仮説というものがあります。世界が不当な不運に見舞われることのない、公正で安全な場所であるという仮説です。この仮説ーーいいことをすればいいことが起こるし、悪いことをすれば悪いことが起こる。すなわち人はその人にふさわしいものを手にしているーーを信じる傾向を「公正世界信念」といいます。

 公正世界信念にはポジティブな側面とネガティブな側面の両方があります。ポジティブな側面としては、「世界は安定して秩序のある世界なのだ」と認識することで、不確実な世界に生きる心理的なストレスが緩和される点です。公正な世界を信じることと、目標に向けてこつこつ努力することや、主観的な幸福感の高さには関係があることが分かっています。

 一方、ネガティブな側面としては、信念に反する状況を目の当たりにすると脅威を感じ、信念を維持するために罪のない人の人格を傷つけたり非難したりする点が挙げられます。冒頭でお話しした被害者非難は、まさにこれに該当します。

 公正な世界を信じること自体はいいのですが、その信念や世界観と一致しない出来事を目の当たりにした時、私たちは不公正に巻き込まれた人に原因を求めてしまう。「そんな目に遭ったのはあなたにも原因がある」という、いわゆる自業自得という考え方です。「被害者にも落ち度があった」と考えることで、「自分は違う」「ひどい目に遭うのはルールを守らないからだ」と自分を納得させて安心したいという心理が働くのです。

 新型コロナウイルス感染症に罹患した人に対しても、「外出して遊んでいたのでは」、「予防行動をとっていなかったのでは」といった非難が向けられ、それが「感染は自業自得」という考えにつながったとも解釈できます。

多層的なアプローチで「自業自得」的発想の低減を


 ではなぜ諸外国に比べて、自業自得の考え方をもつ日本人が多いのでしょうか。私の仮説は以下の通りです。

 まず、日本人は「因果応報」的なストーリーに幼少から慣れ親しんでおり、実生活でもそのような因果関係を期待しているのではないかということ。次に、日本人は特定の信仰をもたない人が多いこと。多くの宗教や信仰は「今は不運な目にあっているかもしれないけれど、それもきっと人生の糧になる」と、より良い未来を思い描くことで現在の不運をやり過ごそうという教えや考え方が見られます。しかし私たちの研究では日本人はそもそも特定の宗教を信仰している人が少なく、また、信仰の有無に関わらず、現在起きている出来事は過去の何かしらの結果である、すなわち過去から今起きていることを理解しようとする人が多いことがわかりました。その一方で、現在起きている不運な出来事は、将来何らかの形で精算される、というポジティブな未来を期待するような考え方はしにくいこともわかったのです。

 3つ目の要因としては日本の社会生態学的な特徴が考えられます。日本は自然災害は多いですが、社会の秩序は他国に比べて整っています。電車やバスなどの公共交通機関が大幅に遅延することはめったにありませんし、あらかじめ決まっていた公式な予定が誰かの都合で一方的に急遽キャンセルされるようなことも少ないです。また、治安も他国に比べると良い方です。そのため、「ルールを守っていれば、不運な目に遭うことは滅多にない。不運な目に遭うのはルールを守らないからだ」という考えを持ちやすいのかもしれません。この研究はまだ始まったばかりなので、今後も続けていくつもりです。

 では感染者に対する被害者非難、自業自得的な言説を低減するために、私たちに何ができるでしょうか。私は、多層的なアプローチが取れると考えています。まず個人レベルでは、他者を攻撃するのではなく、自分の不安に向き合うこと。得られた情報のみで判断やステレオタイプ化しないこと。不安が強い場合は情報から距離を置くのも大事です。次に対人や集団レベルでは、差別に対して「私はそうは思わない」など否定を表明すること。社会の分断を招かないよう、個人間の問題を集団間の問題にしないことも大切です。また、マスメディアは不安を煽るような極端な見出しの表現や、近視眼的な判断を促すような内容の記事が生み出すネガティブな効果について自覚的であってほしいと思います。そして最後に、社会レベルという点では、金銭的なサポートや長期的視点が持てるような政策、政府としてのビジョン(長期的戦略)を国民にしっかりと伝え、コミュニケーションを疎かにしないことが重要ではないかと考えます。

 将来の予測が立たないことで不確実性が増し、そこで生じた不安が攻撃的態度につながります。その「不安」を理解し、介入することが重要です。申し上げたように、個人レベルから社会レベルまで多層的なアプローチが可能です。ステレオタイプ、偏見、差別が生じる背景や、公正世界信念にもとづく私たちの行動傾向の特徴を理解し、コミュニケーションの問題を少しずつ低減していきましょう。私もこのような問題に関わる研究を引き続き進めていきたいと思います。