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トッカビ結成50年 草の根から多文化共生を考える NPO法人トッカビ 代表理事 朴洋幸さん

2025/06/02


国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議では毎年様々な切り口で人権をテーマにした「プレ講座」を開講している。2024年度の第2回講座は「トッカビ結成50年 草の根から多文化共生を考える」をテーマに代表理事の朴洋幸さんに講演していただいた。その様子を報告する。


トッカビ結成50年 草の根から多文化共生を考える

50年前に地域の人々が立ち上げたトッカビ

 私が代表理事を務めるトッカビは、2024年で結成50年を迎えました。1974年大阪府八尾市で「トッカビ子ども会」として設立、2002年にNPO法人となり、2008年に「トッカビ」と名称変更し現在に至ります。

 「在日コリアンの子どもたちに差別に抗う力を」と地域の青年と保護者と教員が立ち上げ、さまざまな差別や国籍による障壁を取り除く闘いに取り組んできました。私は1997年からトッカビに関わり、その2年後に25周年を迎えたので、トッカビの歴史のおよそ半分に関わってきたということになります。地域社会の中で、とりわけ在日コリアンが多文化共生をどう進めてきたのかについてお話できればと思っています。

八尾市と在日朝鮮人の歴史

 まずトッカビが生まれた背景を統計から見ていきます。1952年、八尾市内人口73892人のうち外国人登録者数は1886人、その割合は2.55%(八尾市統計書2007年版)とあります。なぜ1952年の数字をあげたのかというと敗戦した日本が連合国と締結したサンフランシスコ講和条約、平和条約が結ばれた年だからです。これによって日本が連合国の支配を受けない独立国となりました。

 それまでは大日本帝国臣民ということで、朝鮮半島に住んでいる人々、あるいはそこから渡ってきた人たちは実質日本人として扱われていました。ところがこの条約によってこうした人々はいきなり日本人から外国人になりました。そこから外国人登録が始まったわけですが、当時も八尾市は大阪府内において外国人比率が高い市であったと思います。

 トッカビが生まれる前年、1973年になると八尾市には5800人の外国人登録者数がおり、1952年当初よりずいぶん増えていました。八尾市の人口自体も増えていたので比率としては2.37%ですが、それでも府内では高いほうでした。

 トッカビが生まれたのは八尾市のいわゆる被差別部落A地区です。A地区における朝鮮人人口397人、地区内居住率が9.2%です。八尾市全体の中でもA地区における朝鮮人の比率は非常に高いものでした。

 八尾市内において在日朝鮮人が増えたことも影響しています。1889年に大阪鉄道による湊町〜柏原間の開通と八尾停車場の設置(現JR大和路線八尾駅)、1924年大阪電気軌道の開通と布施〜八尾間の開通(現近鉄)があり、駅周辺には紡績・製油、マッチなど多種類の工場が進出しました。そこで働く労働者としての朝鮮人も増えたという状況があったのです。

 A地区にはA地区独自の背景がありました。部落産業であるニカワ製造に関わって、サンドペーパー製造工場を地区の有力者が作りましたが、大変な悪臭がすることもあり、地区の人たちは就労を敬遠します。そのため低賃金で雇うことができ、仕事にあぶれていた大阪市生野区の朝鮮人を多数雇ったという聞き取りの記録があります。物価も安く、よその地域より生活しやすかったようです。こうした事情から、部落の人たちと朝鮮人の人たちが隣接して暮らす環境が生まれました。

 1965年、全国的な部落解放運動の盛り上がりの中、A地区においても部落解放同盟の支部が結成され、公営住宅の建設を要求する運動が起こりました。住宅要求者組合ができ、地区内に住んでいる朝鮮人も加盟して要求運動に参加するようになります。運動の成果として住宅は建ちましたが、朝鮮人は入れませんでした。当時、公営住宅には国籍条項があり朝鮮人は入居できなかったのです。しかしともに運動した人たちと成果を分け合おうということで、独自措置を講じて朝鮮人も入居できるようになりました。

 解放奨学金にも同様のことがありました。国と大阪府は朝鮮人を補助対象としていませんでしたが、八尾市は独自財源を組み在日コリアンにも奨学金を給付しました。こうした流れがあり、「教育守る会」「高校生友の会」などに在日朝鮮人の親や子どもたちも参加していくことになりました。部落解放運動のとりくみのなかで朝鮮人の保護者、青年や高校生も刺激を受け、地域に生まれ育つ在日の子どもたちの未来を考え1974年秋に「トッカビ子ども会」が結成されました。

民族的自覚を育み、差別に負けない子どもに

 トッカビ子ども会結成には、実はもう少し背景があります。結成直前の1974年春、地域において中学生の非行問題がクローズアップされました。地域の中で「教育を守る会」が中心となり学校や教育行政との話し合いを重ねました。子どもたちが非行に走る背景を整理する中で、部落差別とともに在日朝鮮人差別の存在も見えてきました。差別の現実から非行に走らざるを得ない子どもたちが生まれているという認識がなされ、それをどうしていくのかということで地区内において在日コリアン中学生を対象とした学習会がスタートしました。非行している子どもたちを集め、勉強を教える体制を組んでいくわけです。

 学習会を通じて限られた職種の中でなんとか生きてきた親の背景を知り、子どもたちは目覚めていきます。その背中を押していこうと民族名を名乗る(本名宣言)取り組みも始まりました。

 また地域と学校がともに民族教育に取り組むため、地域中学校区内の「民族教育推進協議会」発足、さらに地元小学校では教員有志による「民族教育を考える会」が発足しました。その延長線上にトッカビ子ども会の発足があったのです。

 トッカビ子ども会は地域内に残っていた古い長屋を借りて始まりました。5畳くらいのスペースでトイレは共同という部屋でしたが、「自分たちの砦ができた!」と青年や保護者たち、子どもたちも大変喜んで通った場所であったと聞いています。

 トッカビというのは朝鮮語で、正しくはトケビ、おばけや妖怪と訳されていますが、恨みを買ったり人を殺めたりする妖怪ではありません。朝鮮の民衆に非常に親しまれてきた、茶目っ気のある伝説上の妖精です。地域の人たちに愛されながら大きく育てていきたいということでその名をつけられたようです。

 1975年に行われた子ども会サマースクールでのメッセージを紹介します。

「トッカビ子ども会は、日本の学校に通う同胞民族の子弟を対象にした子ども会です。あらゆる政治、主義、主張、思想にかかわらず、民族としての自覚と誇りを持ち、自分の民族を隠さず、差別に負けず、どうどうと力強く生きる力を身につけることを目的としています。」

 このように、民族的自覚を育み、差別に負けない子どもを育てていくというのがトッカビ子ども会の大きなメッセージの柱としてありました。

在日の生活と現実から出発した民族教育

 トッカビは在日の子どもたちがこの社会でどう生きていくのか、在日の生活や現実をしっかり直視し課題をどう解決するか、というところから始まることを民族教育と考えています。その象徴的な取り組みとしてやってきたのが、「本名宣言」です。兵庫県尼崎市で生まれ育った私自身、大学生になるまでは日本名を名乗り在日であることを隠して生きてきましたが、トッカビの子どもたちにも同じ状況がありました。「自分の本当の名前を隠す必要はない、本名や民族名を名乗り堂々と生きよう」と、トッカビに来た子どもたちに民族名を名乗らせていくわけです。

 トッカビで民族名を名乗ったら今度は学校で、その次は地域でと、子どもの背中を押す流れがありました。しかし現実には誰もが同じ立場であるトッカビの中で名乗ることと、日本名が圧倒的多数の学校や地域で本名を名乗るのとでは子どもが受ける重みやプレッシャーが違います。

 ある保護者はこう語りました。「民族だけでは飯食われへん。まず生きること、その日その日のご飯のほうが大切や。本名を名乗っても会社が雇ってくれへんかったらなんにもならん」。

 この保護者が何度も何度も味わってきた苦い経験からくる言葉だと思います。本名を名乗った子どもたちが報われる社会を作っていかねばならない。「在日の生活と現実から出発した民族教育」というのはこういうことです。

制度の壁を破り、ロールモデルを増やす

 発足以来トッカビでは、さまざまな取り組みをしてきました。1978年「教育権の保障を求める闘い」、1979年「八尾市の国籍条項撤廃の闘い」、1981年「国民体育大会の国籍条項撤廃の取り組み」、1983年「郵便外務職員の国籍条項撤廃の取り組み」などです。

 特に郵便外務職員の国籍条項撤廃の取り組みでは多くの市民団体や地域の部落解放同盟、さまざまな労働組合とともに「囲む会」が結成され、一体となって取り組みました。

 当時の郵政省の職員が地域にやってきて在日の人たちの話を聞くということもありました。最終的に国籍条項が撤廃となり二人の在日朝鮮人の若者が本名で採用となりました。地域の子どもたちにとっては本名を名乗っても郵便外務職に採用されるというロールモデルが増えることが大事です。実際この二人が郵便外務職員になったことによって、高校卒業後に郵便外務職を目指し入っていく青年たちが多くいました。その後、郵政民営化となり管理職登用の制限が取り払われました。今、二人は管理職となりがんばっています。こうした制度の壁を破っていくことが次世代の子どもたちの夢や希望につながっていきます。

外国人差別の歴史は繰り返されている

 冒頭で八尾市における外国人の数をご紹介しましたが、この20年で外国籍者の構成が変化し、特にこの10年で大きく変わっています。2024年の外国籍者は8824人で、最も多いのがベトナム人、次が韓国朝鮮人、続いて中国人です。今、八尾市内にもベトナムコミュニティが非常に多くなってきています。ベトナムの雑貨を扱う店ができたり食料品の店ができたり、コミュニティが増えるとともにコミュニティに向けてさまざまな仕事をする人たちも増えてきています。

 地域にベトナム人が増えていくにつれ、日本で生まれ育ち、日本語しか話せない子どもたちが出てきます。市役所から届いた書類に何が書いてあるかわからないという親がトッカビに相談にくるのですが、「私(親)が話すベトナム語を子どもが理解できない」というケースがありました。どこかでベトナム語を教えてくれませんかということで、ベトナム語教室を始めました。ルーツに関わる言葉を肯定的に受け止めてほしいという思いから「ルーツ語教室」と名付けました。

 市民相談事業としてベトナム語を使える人をトッカビで採用し、相談も受けてきました。その実績が認められ、八尾市が委託事業として予算を組んでくれ、今はベトナム語と中国語をメインに相談事業をやっています。

 そのなかで、コミュニティではベトナム名を使い、外では日本名で生活する難民二世の青年と出会いました。青年はベトナム名で呼ばれているときと日本名で呼ばれているときではまわりの視線が明らかに違うと話していました。

 ある時、彼が出先で見かけた光景をとても残念そうに話してくれました。あるスーパーで、子どもと買物をしている知人を見かけた時に子どもが知人に「お父さん、ベトナム語で話しかけないで」と言っていたそうです。ベトナム語で話しかけられると自分がベトナム人だとまわりから見られてしまうからという理由からでした。

 子ども同士では、ちょっとした揉めごとから「ベトナムへ帰れ」と言われることもあるそうです。この「帰れ」という言葉が一番ダメージになります。なぜ自分がここで生まれているのか理解できないまま、自分がベトナム語もできないのに帰れと言われる。在日コリアンの子どもたちが受けてきた歴史と同じ状況がここにもあると思いました。

 トッカビは差別に負けず、自分の豊かなルーツを肯定的に生きられる社会を目指して始まりました。ですから同じ境遇に置かれているベトナム人、中国人、その子どもたち、あるいはその親の支援ということにも必然的につながってきました。

多文化共生は当事者の「がんばり」だけでは実現しない

 トッカビの10年史のなかに「人間として生きたいから朝鮮人として生きる」という言葉があります。

 私たちが常日頃、民族にこだわるのはあくまで人間として人間らしく生きたいからに他なりません。民族差別と闘うのは、人間として生きたいからです。だから子どもたちには民族の誇りと自覚を与えようと民族教育を進めてきたわけです。

 これを今風に言うならば、「自分のルーツを肯定し、ありのままに生きていこうよ」というメッセージになります。ただ、当事者ががんばるだけでは実現できません。

 「多文化共生」を否定する人はいないでしょう。しかし実際には差別や偏見が根強いという現実があります。真の多文化共生を実現するには、日本に住んでいる外国人の人権が侵害されない、外国人がこの地で草の根をはってこの社会で生きる人であるという見方をしっかり培っていくことが大切ではないでしょうか。

 トッカビの50年の取り組みによって多文化共生が実現できたとは思いません。むしろ課題ばかりという自戒の念も込め、これからも草の根から多文化共生を追い続けなければならないと思っています。