悲しむことは生きること 福島・沖縄・難民・原発 蟻塚亮二さん
2026/03/02
戦争トラウマを抱えた両親のもとに生まれて
私は精神科医として特にPTSDの治療に取り組んできました。今あらためて、何が自分を突き動かしてきたのかを考えると、生まれ育った家庭すなわち両親の半生が色濃く影響していると思わざるを得ません。
私の父は満州鉄道の助役でしたが、中国で招集され戦争に参加しました。鉄道マンだったので敗戦後、旧国鉄や役所などで働かないかとずいぶん誘われたようですが、戦後の父は人の中に入っていけず、会社組織では働けなくなっていました。
母は昭和20年7月の福井空襲で、生後間もない兄を背負い焼夷弾が次々落ちてくるなかを逃げまどった経験があります。30代のころから雷を異様に怖がり、強い不安発作を起こすようになりました。子どもだった私の目から見てもおかしいと感じるほどでした。
東日本大震災が起きたときには宮城県出身の兄嫁から聞いた津波情報で食事が食べられなくなり、ICUに入院するも病院を脱走。1週間後に亡くなりました。
今思えば、父の対人回避傾向は戦争トラウマの影響、母は福井空襲のトラウマの再燃だったと思います。私はそんな両親のもとで育ちました。
思春期の頃には家庭は半ば崩壊状態にあり、死にたいという気持ちこそありませんでしたが、生きるという実感や生きていくことを肯定的に捉えられずにいました。また私自身も人とうまくコミュニケーションを取れないまま成長しました。
経済的余裕もなく、自衛隊に入ることも考えましたが、一浪後に大学の工学部と医学部に合格。人とうまく付き合っていくスキルがまったくないことは自覚していたので、医者になればなんとか食えるだろうと医学部を選びました。精神疾患の知識はまったくありませんでしたが、大学3年生のときに精神疾患への差別・偏見を知り、僻地での内科志望から精神科へと志望を変えました。
従来の定義に当てはまらないPTSD
精神科医として青森で30年働きました。沖縄で働いていたとき、出会った高齢の男性たちから不眠に悩んでいるという話を聞きました。どんな薬を飲んでも熟睡できず、夜中に何度も目が覚めるというのです。うつ病型の不眠は夜中に眠れません。しかしその人たちにはうつ症状は見られませんでした。のちにトラウマが原因で過剰に覚醒する「過覚醒不眠」だとわかりますが、当時はわかりませんでした。しかしここからまるで導かれるようにのちのPTSD研究へと繋がっていきます。
2004年に沖縄に移住、那覇市内の病院で働き始めました。ある時、渡嘉敷島で集団自決の現場に居合わせた牧師の話を聞く機会がありました。明日にも米軍が上陸してきて殺されるかもしれない。生き延びたとしても後ろには日本軍がいて殺される。前を向いても後ろを向いても殺される。そんな状況で、集団自決は起きました。
この状況が人にどんな影響を及ぼすのかを知りたいと、世界じゅうの論文を検索しました。その中に、ナチスのホロコースト生存者の睡眠障害について書かれているものがありました。「夜中に何回も目が覚めるがうつ症状はない」とあり、これだと思ったのです。沖縄戦の生存者にあらためて当時のことを聞くと、親に手を引かれて戦場を死体を踏みながら走って逃げたといった場面がいっぱい出てきました。「PTSDは6ヶ月以内に発症する」という診断基準があります。しかし沖縄戦の生存者は、60年以上経ってから発症したPTSDでした。
2011年3月、東日本大震災が起こります。福島の友人たちからの要請もあり、2013年4月から福島県相馬市の被災地診療所で働くことになりました。
着任した途端に、震災のPTSDを発症したばかりの女性と出会いました。赴任する2ヶ月前である2月、仮設住宅で一緒に暮らしていたおばが亡くなり、葬式の最中に津波の映像がフラッシュバックして眠れなくなったということでした。震災から2年後にPTSDが発症したわけで、沖縄に続いて福島でも「PTSDの発症はトラウマ受傷から6ヶ月以内」という基準の限界を感じました。
東北に繰り返す「国策のトラウマ」
東日本大震災では原発事故もありました。これによる被害も甚大です。もちろんPTSDを発症する人もたくさんいます。そのことに触れる前に、そもそもなぜ福島県に原発があるのかを考えたいと思います。
明治維新を経て近代を迎えた日本では、統一国家を目指す西の勢力--薩長同盟が官軍として東北を攻めました。東北の各藩は抵抗して戦い、敗れます。その代表が戊辰戦争でした。
社会学者の内田樹氏によると、この戊辰戦争で幕府側についたか官軍についたかによって、新政府の公共投資に大きな差別が生まれました。実業家・渋沢栄一も「東北は維新の際に賊軍となったため非情な不利益を被った」と述べています。国はインフラの充実や国有林の解放などに関して、東北に対して懲罰的な政策を持って対応したのです。結果的に東北は近代化から取り残されました。農地不足による相対的余剰労働力は、都市の近代化を支える労働力となりました。
東北の貧困は、ここから始まったのです。食糧や鉱山資源や林業資源、電力の供給、労働力や兵士を中央に供給する東北は、いわば「内国植民地」の役割を担わされたといえます。こうした傾向は現在も続いており、例えば福島県猪苗代湖の水利権は、今も東京電力が所有しています。
日本が敗戦した1945年、旧満州を始め外地には660万人の日本人がいました。満蒙開拓に参加したのは、もともと国内での生活が苦しい人たちです。一番多いのは長野県ですが、以下は山形、岩手、宮城、福島と東北が続きます。そもそも「満州へ行けばたらふく食える」とそそのかして送り出したのですから、敗戦でぼろぼろになった日本に人々を受け入れる余力などありません。
国内には元兵士や空襲被害者など失業者があふれ、深刻な食糧難に陥ります。国は戦後開拓100万戸を作り、既存の農家が農耕不適と見放した山林や荒野に行き場のない人たちを誘導しました。農家が見放した土地での営農は困難を極め、開拓をあきらめて離村した人も多くいました。
こうした戦後開拓は、一時的に農村に人口を預け、必要に応じてそれを取り崩して戦後の工業化に使用していく「人口の一時プール」となりました。対象とされた人々は「国内難民」といえるでしょう。
すでに人力で開墾されている平坦な土地に比べ、海岸地帯にある戦後開拓の土地は僻地であるがゆえ人口密度が薄い。しかも他の土地と比べて格段に安いという条件が原発立地に適していました。そのため戦後開拓だった土地が、そのまま原発の立地になっているところが多く見られます。
東北でいえば、青森県の下北半島に大間原発、東通原発、その南に六ケ所村核燃基地、さらにその南に福島第一、第二原発があります。戦後開拓で荒れた土地をやっとの思いで掘り起こして平地にしたものの、痩せた土地で食べていくのは大変です。事故が起きた原発のある大熊町と双葉町は産業もなく、農業は戦後開拓農家が主体で、「福島のチベット」といわれていました。ですから電力会社が土地を買いたいといえば、みな喜んで売ったのです。
東北の人たちには満蒙開拓というトラウマがあり、やっとの思いで帰国した後の戦後開拓で食べていけないというトラウマがあり、原発事故が起きてさらにトラウマ、避難先で差別に遭いまたトラウマ、とトラウマの連続です。それも「国策のトラウマ」です。
「仮の人生」を生きる苦しみ
2011年3月の原発事故によって帰還困難地域となった福島県浪江町津島地区の住民500人を対象に、PTSDの調査を行いました。すると48. 4%、2人に1人がPTSDと判明しました。これは日本の過去の災害の中でも、類を見ない高さです。
さらに「重症の精神不調の者」は県内避難者で26.6%、県外避難者は43.2%にものぼりました。県外避難者の4割強が重度の精神不調にあるのは、言葉も文化も異なり、経済的な困難を抱えて県外に避難することがいかに過酷かを示しています。
NHKのデータですが、福島県では震災関連死で亡くなる人が非常に多かったこともわかっています。震災関連死が震災直接死を上回っているのは福島県だけです。理由は避難回数の多さです。福島県民の平均避難回数は3.36回、宮城、岩手両県民は2.7回(震災5年後)です。福島県の震災関連死の方の平均避難回数は6.7回で、避難を繰り返すほどに心身へのダメージが大きくなることを示しています。
故郷を追われ避難した人々には、どんな困難があるのでしょうか。まず仕事がありません。中高年の転職は絶望との直面ともいえます。仕事がないと生活費が不足し、家族内での葛藤が増えます。「いつか故郷に戻るのか、それとも避難先で生きていくのか」という問題も抱えます。未来の喪失により精神的な絶望感が生まれます。このように先を見通せない「仮の人生」が続くとPTSDが多発します。
こうした状況にある人たちは「難民」といえます。国連高等弁務官事務所の難民の定義には「紛争や迫害から自分や自分の家族の命を守るために、自分の国を離れて国外に逃れなければならなかった人のこと」とあります。この定義に原発避難民の人々はそのまま当てはまります。
多くの日本人は「難民」という言葉に「政情が不安定な国から命からがら逃れてきた人」といったイメージを抱いているように思います。しかし原発避難民の人々がそうであるように、日本国内にも難民と定義できる人たちがたくさんいます
たとえば在日韓国朝鮮人の人たちも難民です。朝鮮が日本の植民地だった時に、土地を取り上げられ、生きるための仕事を求めて渡日せざるを得ませんでした。現在の日本も同じ状況です。安く働かせるために渡日させた外国人労働者の人権を日本は国として保障していません。
強い恐怖や不安が生み出すもの
福島県では周辺の県に比べて自殺率も高止まりしています。また、児童虐待も増加しています。震災以降、児童虐待の相談件数が全国平均で3.5倍に増えたのに対して、福島県では7倍と全国の2倍を超えました。
原発のある福島県浜通り地方では、9倍にも増えています。教育関係者によると、進学に際して子どもたちが早々にあきらめる傾向が見られるといいます。子どもや親たちが未来に向けて挑戦することを回避する傾向が強くなっているとのことです。
こうした現状から、私は10年20年後にうつ病や自殺、PTSDや家庭崩壊、アルコール依存などが多発しないかと危惧しています。
沖縄戦から18年後の1963年は「戦後最悪の少年非行の年」と呼ばれています。4,865件の少年事件が発生し、そのうち43%が強姦、強盗、殺人などの凶悪犯でした。同時に1957年から1960年代にかけての沖縄は精神病多発時代でもありました。
少年非行の爆発と精神病の多発は、ともに戦争または戦後の困難による集団的トラウマによるものと考えられます。福島でも同様のことが起きているのではないかと危惧するのです。
私が診察した人たちに原発事故が起きたときのことを聞くと、「死ぬのではないかと思った」と言う人が少なくありません。しかしあまり多くは語られません。
強い恐怖は心の隅々に染み渡っていますが、「他人に語っても理解されないだろう」と抱え込む人がとても多いのです。1人で抱え込むことで、PTSDの発症や自殺のリスクは高まります。ある女性は2021年に北朝鮮がミサイルを発射したというニュースが繰り返し流された時、「震災の場面がフラッシュバックし涙が止まらなくなった」と話しました。
原発事故で避難した人もいますが、避難しなかった人もいます。どちらも大震災と原発事故を契機に、人生設計が大きく変わってしまいました。大震災と原発事故が起きるまで、人々は平和な日々がずっと続くと信じていました。たとえば「10年後には子どもが結婚して孫が生まれているかもしれない」などと未来の夢に向かって暮らしていたのです。しかしそれが震災や原発事故によって根底から覆されました。
回復は痛みや苦しみを共有することから
震災や原発事故によって有形無形の大切なものを失い、PTSDを抱えながら生きることは容易ではありません。しかしそれでも人は回復して生きていけることもまた患者さんはじめ、多くの出会いを通じて教えてもらってきました。
津波で夫と息子を亡くし、ひとり残った女性は人の輪に入れなくなりました。このままではいけないと私が誘ったデイケアで、自分の話を共感をもって聞いてもらうという体験をし、涙をたくさん流して心が落ち着いたと話してくれました。同様のエピソードを多く聞くことから、安心できる環境で十分に悲しむことが重要だと考えています。
『悲しむことは生きること 原発事故とPTSD』という本を書きました。沖縄や福島で出会ったみなさんから教えてもらったことであり、戦争トラウマに苦しんだ両親のもとに生まれた私が行き着いた思いです。十分に悲しむことで、人は生きるという希望と未来とを取り戻し始めるのです。
沖縄で働いていた時に、「ちむぐりさ」の文化を知りました。ちむぐりさとは「あなたがケガをして私の心も苦しい」という意味で、沖縄がつくりだした抵抗文化を象徴する言葉です。この痛みや悲しみを共有するちむぐりさの文化は、被災地にこそ必要です。痛みと逆境のなかに生まれる絆を生きる力に。そのために私も力を尽くしたいと思います。

