私は、中学の時、「中華人民共和国の指導者の名前を書け」というテストに、敢えて「けさわひがし」と書いたことがありました。正しくは「モォー・ツォー・トン」のはずなのに、日本人が勝手に「モウタクトウ」と呼んでいるだけだから「けさわひがし」も正解のはずだと主張して。教師と激論を交わし、最終的に正解にさせたことがある。
本人が望んでないのに、勝手に日本語読みで呼ぶのは、上下関係を組み込ませ、自分の流儀を相手に押し付けることです。外国人の名前を正しく読まない日本社会は間違っていると思います。しかし、在日コリアンの場合は多様で、日本語読みを自分の名前としている人もいますから、呼び方が分からなかったら「何と呼んだらいいですか」と聞くべきですね。
そう。「何人であるということとは関係なく、同じ人間として生きていこう」ということと、「日韓の差異を認めていこう」ということの両方が大切だと思いますから。 60~70年代前半の人権教育は、「人間みな平等」が重視されました。その想定範囲は人間生活のごく僅かだったので、例えば週に1回とか月に1回とかの人権の時間に、担当教員が上から教えられたとおり、在日の子を指して、「○○さんが本名宣言する、言え」と。涙を流して告白させ、「○○さんが何で泣いているのか分かるか」とクラスに呼び掛けるといったものでした。「先生が泣かしたんだ」と心の中で思っても口に出せない。そんなことをさせられるくらいだったら、在日であることをずっと隠し続けたいという思いになる子が少なからずいたのも無理ありません。そういう教育が行われていた弊害が、日本人の「変な遠慮」を生んだのでしょう。 70年代以降、「違いを分かり合おう」という考え方が、「人間みな同じ」の考え方を超えてきたので、在日が集まっているサークルに入って仲間と出会い、本名がナチュラルな形で言えるようになるという者も多かった。 在日コリアンが直面している課題は、多民族社会に転換途中である日本社会に突き付けられた課題です。身近に在日コリアンと接する機会があるなら、とりわけ名前の呼び方は率直に聞く。そして、歴史問題や在日外国人の人権問題など今行われている議論に耳を傾け、日本人自身が在日コリアンについて学習していってほしいと思います。 (06年2月取材 text:井上理津子 photo:徐善美)
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